言論が敗北するとしたら

今、ネットがこれだけ普及したことにより、本当に誰もが自由に言葉を発することが可能となった。言葉を発するコストが下がった時代。

…であるがゆえに、簡単に、裏付けなしに、心の赴くままに、情動に流されるままに、言葉を垂れ流すこともできる時代。

それによって、結果的に「言葉」が持つ力が力を失い、誰もがそんな不確かな、落書きと同レベルの言葉を発する場何て意味がない…と、結果的にその「場」の価値が下がり始めているのを感じる今日この頃。

 

「場」とは、その「場」の価値を上げ続ける、保ち続ける活動があって初めて価値が担保される。何の苦労もなく、いつまでもその価値を保ちつつ、そこにあり続けるというものではない!ということは、どのくらいの方が実感しているのだろうか?

 

日本人は特に、「自由」に関する価値を低くみすぎだと言われている。欧米では「勝ち取ってきた、自由」であるがゆえに、それを守ろうとする力が働いていることを、端々に感じることがある。が、それに対して日本では、「どこにでも当たり前にある、それが自由」と感じている人が多いような気がしている。

 

その言葉の自由、(人が持つ権威に依らない)言葉の力が、相対的に弱まっていないだろうか?結果として、権力のある者の言葉、権力を持つ者の力が、相対的に強まっていないだろうか?

 

言葉の力が弱まれば、言論が敗北すれば、僕らはどんな世界に叩き込まれるのか?それ以外の力を持つものだけが生き残る、例えば、お金や権力者のみが生き残る、そんな者たちの言葉だけが意味を持つ、そんな時代でいいのか?