分からない のは何

最近(に限った話でもなさそうだけれど)の一つの傾向として、「分からない事を、すぐ分かるように」なろうとする流れがあるような気がしている。

中学の英語が〇時間で、とか、日本の歴史を〇時間…とかとか。

別に過去のあの時のみならず、わからない経済が一気に見えてくる…、決算が一目で読めるようになる…なんてのも同系列だろう。

 

別に裏付けデータを持っているわけでもないけれど、そうした類いの本での売れ行きはというと、文系(英語、歴史、経済等々)>>>>>理系(物理、数学、IT等々)なのではないかと想像するのだが。

 

キャッチーでポップな言葉が書店店頭に踊り、思わず手に取って中身をパラパラ見てしまいたくもなるが、個人的には最後の一押しが足りない。たぶんそれは、上記に書いた、文系系列の本が売れている事にも関係している気がしている。

それは、「たったそれっぽっちで分かった気になったところで、満足できるのか?」

 

たぶん、そうした本を手に取る人/時は、そもそも「自分がその分野で何が分からないかが分かっていない」時なのではないか?だから、それを読んで「あぁ、ここが分かっていなかったんだ」と理解する。たぶんそこ止まり。きっと分かっていなかった周辺景色が見えるようになって終わっていないだろうか?

 

本当に何かをわかりたい人は、「自分が“これ”をわかっていない」ということをわかりたい。その「今わからない事が何かが分かっている事」までは理解していたりする。

でもそれは「わからない事の本質が分かった」のではなく、「わからない事が何かが分かった」にすぎず。それを理解しようと突き詰めていくと、さらなる分からない事がいくつも出てくるという事。これをもって分かったと勘違いしてはいけないこと。

まぁ、世の中はその程度出回っている、と言えなくもないのかなぁ。