「本物じゃない」価値

本物はすごい。どんな本物もそうだろう。分かりやすいところは芸術だ。絵画や彫刻など、その「本物」に接したときは、その圧倒的迫力や色使い、筆遣いなど、本や写真では感じられない、訴えかけてくる何か、を感じることがある。

 

だが、じゃぁ偽物はすべて意味がないか?というと、私はそうは思わない。

本物じゃない事で、気軽に扱えたり、みんなが手にすることができたり、複製がたくさん作れたりすることで、目に触れる機会が増えたりと、本物でないからこそのメリットが、これまたたくさん生じる事がある。本物では「成しえなかった事」が、偽物であるからこそできる事。それがそのものの価値。

 

要するに、本物が本物であるがゆえに持ちえない価値観、たとえば、繊細さや取り扱いの難しさ、希少性を全く裏返したところに、価値が生まれるという事。

 

だがこれにしても、要するに「…というぐらい大量にできたことで、別の意味が生み出された」と感じてこその意味。「なんだよこれ!ただの偽物じゃねーか!」と見下した途端に、気づける別の価値に気付けなくなる。

 

それぞれにはそれぞれの、その存在意義がある。それには「それの意味」がある。意味のない存在に見えている/なるというのは、意味や意義を見出すことをあきらめるからではないのか?

生み出せる価値なんていろいろあるはずなのに、頭が凝り固まっていては、気づけるモノにも気づけない。そんな物や人が、あなたの周りにも存在しているんじゃないですか?誰かが価値に気付いたとたんに、輝きだすはずなのに。

そう、じつはあなたが手にしている「それ」は、宝石の原石かもしれないんですよ。あなたが気づいていないだけでね。

もったいないもったいない…。