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ルールとは線かリボンか

日本で仕事をする場合、国際化が叫ばれるずっと以前においては、ほぼ日本人だけで仕事が回されていて、いわゆる明文化されたルールを決めずとも、「日本人としてのコモンセンス」などが、事実上のルールとして働き、仕事が回っていた環境があったのではないだろうか?であるがゆえに、海外から入ってきた人はその事実上の(文化に根差した)暗黙のルールが分からず、困惑する事などが多かったのではないかと思う。

 

それに比して欧米では、そんなコモンセンスで仕事が回せる以上に、宗教も、文化も多様であったりした。がゆえに、ルールを明確化して仕事を回すことが重要に、と言うか、そうせざるを得ない、うまく回すための手段だったのかもしれない。

 

これに倣って、昨今様々な事情が多様化した日本でも、職場でのルールを厳格にしようとする。厳格なルール。それをやりだした瞬間に、どこかに「線」が引かれる。

これ、ココからこっちがやる範囲、アッチがやらない範囲…としがちなのだが。そうすると、そもそもの線引きでひと悶着あり、線引き自体が非常にややこしくなったり時間がかかったりする。

 

「線」は数学的には面積はないという抽象的な存在だ。だが、物事のルールの「線」は、「幅がある線」であっていいのではないかと私は思っている。

幅、それは事実上の人のやさしさだったり、思いやりだったり、仕事の「のりしろ」として働く幅。広すぎると「溝」になって、そこに仕事がはまり込むこともあるけれど、その部分は互いに気づかい合うという関係性があれば、仕事は互いに補完しあいながら進めることができるはず。

それこそがこれまでの日本の仕事術としての強みであり、互いに助け合って、補い合ってできて来た日本の経済のはず。

 

ただし、あまり幅を持たせてはいけないルール、持たせるべきでないルールも存在するだろう。それは権力における裁量の幅。

 

厳格に引くルール。幅を持たせるルール。どこにどちらを採用するか。

たいてい、幅を持たせるべきところを一本の線できっちりと分け、厳格に分けなければならないところが、幅広のリボンのような線で区切られている気がしているのだが。