それでは生産性は上がらない

今まで「人間がやっていたこと」に価値を感じている人にとっては、それが単純化されたり、機械にとってかわられたりした瞬間に、「サービスが下がったな」と思われているなら?そのサービスの生産性はどのようにあげろというのだろうか?

 

考えてみよう。そこで「生産性が」語られているだろうか?

全世界の基準として、生産性とは、「人がサービスしてくれている事の有難さ」が意味合いとして込められているとするなら、たぶん日本における生産性はかなり高いのではないか。こんなに安い賃金で、こんなに気を使ったサービスをいろいろとしていただける国はそうはないんじゃないだろうか?

 

たとえば、料理屋に入って、おしぼりが出てきて、お茶が出てきて…ということだけでもサービス、人手が掛かっている。お客様一人一人にテーブルセットがなされ、箸、箸置き、小皿、ナプキンなどがセットされているところもあれば、それらは「ざっくり」と机に置かれており、それぞれにとってね、というところもある。でもこれを持ってして、ある意味その店のグレードも測られる、若干なりとも人手がかかるところ。ここでいかに効率を上げていくか。

 

もちろん仕事とは接客業のみに限らないのは当然の事。接客業と事務作業とを同じ土俵で扱う事自体に無理があることは承知の上だ。が、その作業が求める「価値ある結果」に関して、人手が今までよりも軽減されることこそが、効率化の一つの帰結。対人に対するサービス業における効率も効率だし、事務作業の手作業を自動計算に変えるだけでも効率化が図れる。

…が、そうして「効率化してしまったが為に、今までそれを仕事としてきた人の仕事がなくなるから…」というだけの理由で、その手順が残っている事。要するに「効率を上げることによる雇用機会の削減」が行われることとの戦いとなっており、終身雇用を意識していたこれまでは既得権を奪うわけにもいかず、効率化の障壁ともなっていたり。

 

要するに、今までとは違う何かを生み出し続けなければ、価値を生み続けなければ生き続けていけない。同じ価値でも「今までと違うマーケット」で価値が認められるならそれも有りとしての話。そのようにして、組織も、「個人」も価値を生み出し続ける…という前提がこれまでの経済原理の根本だ。

 

こう言い切ってしまうと、それでは風情も何もない、寂しい状態だ…というなら、そこに「その人が介在することに対する価値は、同じ結果であったとしても価値が高いこと」を認めてもらえるか否かが問われるのは当然の事。「対価」を求めるならば、対価に応じた価値を提供せよという事でもある。ただし、たぶんこれは「効率化」という言葉の範疇の外側にある事ではないのか?と思っている。それは芸術や文化的なものに近づいていることになり、今で言う芸能やアートの世界の価値になる。並大抵のレベルでは、この価値は認められないだろう。いや、すでに日本のサービスにおいては、そこまで提供されているところもあるのだろうけれど。

 

とは言え、人が介在するところすべてに価値を生めるとも思っていない。そこまでせずともいいだろうとか、その程度でお金を取るなという、機械で代替できるところもある。いわば受け手の視点から見た効率化すべきポイントを的確にヒットできているかということ。サービス提供者サイドは、その部分を「効率化する」ことが必要になっているという事。事務作業においては、「全体最適」から見た「無駄作業」をなくしていけているのか?ということ。「個別最適」は時に、あちこちに無駄な手間を生むことに。

 

そうした「全体最適」を目指すことこそが効率化向上のポイント。…だけれど、実際に行われている多くは、すべての「個別最適」の積み上げになっているというのが、この国の問題かな。誰も「お国主導」など信じていないようだから。