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見ている見えている、考える

今日から新年度。特に日本は4月を契機として、新入学が大きな転機を迎える。同時に卒業した者たちが仕事に就く新たな職場における働きが始まる時期でもある。海外との関連や入試シーズンも勘案して、秋入学に変更したほうが?という意見はいつも出るものの、「時期」が本質ではなく、「いっせいに…」という事の持つ意味の方をどうとらえるかの問題からか、やはり議論や変化は進んでいないのが現状。

 

これに限らないけれど、「見えている事」と「見ている事」の違いによって、表面上の事象に対処したところで、話題にしたところで、結果的には何も進展しなかったり、何も変わらなかったりするという事は多数存在する。

 

同じ事象を「見て」いたと、「見ようとしなければ見えないもの」がかなりの場合存在する。「見えていないもの」は当然気づけていないわけだし、気づけていないものを理解できるわけもない。

 

そう、「見えていないモノがあるかもしれない」と気づくことがまずスタート。「気づいていないモノはないのか?」と疑うことを止めない事。なんとなく「見えている」と思い込んでしまうことが、考えることを止め、理解することを拒む。

 

モノを見ているか、そして見えているか?

見えているものと見るべきものは同じなのか?

刺激に対して単純に反応するだけになっていないか?

考えない事はある意味、楽だ。が、それで大丈夫ですか?

「疑う」と書くと、そうそういつもいつも疑いを持ってみるのは…と拒否する人もいるかもしれないけれど、こう考えてみてはいかがだろうか。それは、「何にも興味を持つこと」。

興味を持てば、「何、それ?」となる。どうしてそうなるの?理屈は何?となれば、必然的にその本質に近づいていく。それで何がどうなるのか?

どうでもいいや!私には関係ないし!と思った瞬間、エネルギー効率はいいかもしれないけれど、ほぼ同時に思考を止めている。

 

考え無くなれば、私は私でいる意味があるだろうか?