空気を読む国

「忖度(そんたく)」という言葉がはやった昨今。まぁもうすでに下火かな。言葉はむつかしく、日ごろ聞きなれない言葉だったかもしれないけれど、市民が日常で使うなら、「空気読めや!」という事に他ならない。

 

まさに、昨今の日本を表している言葉、「忖度」。空気を読んで対処するなどということばかりがまかり通るとどうなるか?

そもそも、詳しい説明を受ける事「無く」、空気を「読ま」なくてはならない。相手の心中を推し量らねばならない。こうして「最初にその忖度の結果」を作る/考える人はとても大変なのだが、後に続く人は実は楽なのでは。

あれっ、そうなんだ、そっちの方向の考え方なんだ。…とその流れを「読ん」でその方向に話を進めたり、賛成したり。後続の方は忖度と言いながらさほど考えず、単なる選択肢の1つとしてそちらへ流れる。一度こうした流れができ始めると、その流れ自体が「力」になる。すでに忖度の域を超えて、力学の世界になっている。

こうしてその方向に流れができ、力が生まれ、そこに多数派が構築される。まさに数が力になる。

そう、空気を読む事こそ、「数のみが力」になる。

 

それに対して、本来あるべき?多数決の考え方はというと、なぜそう考えたのかという「理屈」や「理由」が提示され、理解されるべきもの。そしてそれが戦わされどちらが理にかなっているか、分があるかを合理的に判断する。その結果として、そちらを選択するかしないか。そこに「何の理屈もなしに慮る」ことはないし、「忖度」はありえない。万が一「自分がそのように忖度、想像していたけれど、当の本人の考えは違った…」としたら、取り返しがつかなくなりえますからね。

 

 

理屈を戦わせることが苦手な国、少し前に流行った、ディベート力が弱い人が集まっている、と言うかトレーニングしない国、さらに言うと、考える癖がついていない人が多い国。それは単純に「数が力」の国を生む。

 

たぶん、これからも考え続けないと「今の力」に支配され続ける。

考えることは大変だし、エネルギーが要る事なのだけれど、でも考えなくなった時点で、僕らは力に屈服してしまうんじゃないだろうか?