共感力

SNSが流行りだしてからざっと10年。「いいね」をはじめとして、共感することが取りざたされている。文字ベースのものもそうだし、写真ベースも、動画ベースも、どれにしたところで、「共感」を呼ぶ事こそが「価値」であり「勝ち」だと判断して評価をあげる。いかに共感させるか、してもらえるかを競い合う。

これに関してもっともびっくりしたのはとある有名女性誌。その号の特集が「共感」だったのには驚いたのだが。まぁインスタグラムが流行っているとすると、これも仕方がないのかな。

 

ただ「共感」は、それ単体での共感と、より大きな中における共感とでは意味合いが違うはず。全体最適としての意味としての共感と、「これ単体としてすごくいい」という共感とは、「共感」としての意味も、価値も違わないだろうか?

部分としては確かに「賛同する」が、全体ではどうか?こうしたシチュエーション、場面、特にここ何年か増えてきていないだろうか?

 

そのくらい、ある意味みんなが自身の意見を持ち始めることができるようになった、と言うか、表明しやすくなった。この違いが主張できるほどの環境になったと言ってもいい。これは社会全体としてレベルが上がってきていることを示している一因のようにも思う。

であると同時に、社会レベルが上がり、それぞれにそれぞれの価値観が存在し得ることで、全員で意義なく納得できる状況を作り出すことがむつかしくなる。だからこそ、部分的には共感できても、全体としてはいやいやそれは…となったりする。

 

  

単なる「承認欲求」の指標として、インスタグラムなどで共感を得たり、Youtubefacebookなどで「いいね」をもらうのもいいだろう。だが、もう少し意識を高く持つとするなら、それよりも一段高い意識での「共感」や「いいね」をもらう事を考えてみるのはどうだろう?

抽象的な話、物事を構造的にとらえたりする事が苦手な人には難しいかもしれない。が、構造化してとらえることで、実は共通パターンで理解できたり、もしくは他では解けている解法を用いて別の事象の問題を解決することも可能になったりする。

「意識高い系 w」などと馬鹿にするのもいいだろう。が、実はそれに共感する力がある事というのは、とても奥の深い深遠なものではないだろうか。表面的ではなく、構造として、意味として…。