される、させる

いわゆる芸人の中にもやはり本当にプロ意識をもって仕事をしている人とそうでない人がいて。わかりやすいところで言うと「お笑い芸人」と呼ばれる類の人の中には、きっちりと意識をもって仕事をしている人もいる。単に笑いを取れれば良いのではなく、

「笑わせる」のであって「笑われ」てはいけないんだ。

とか。

 

結果としてはおなじリアクションが出てくることになる部分はあるのだけれど、いかにそれを「施行者の意図によってそう仕向けていくことになったのか」ということこそが、施行者としての評価や出来不出来にかかわる事。

だから、「思ったように笑ってくれたかどうか」が当人にとっての評価であり、「結果として大爆笑だった」としても、意図していないところであるならば、それは、「結果オーライ」には見えるだろうけれど、目的は達成されなかったことになる。

 

世の中、そういう意味で、「結果オーライ」が横行することは多いのだが、そもそもそれでよしとすることで、目的意識が希薄な人や組織が少なくないように思う。

大胆にいうなれば、「場」がいかにイメージ通りに作れたか?が、(上記の場合における)目的。どのような笑いでというのは、それぞれの芸人にスタイルやプライドがあるはずだ。

 

これは芸人のみならず、仕事や習い事、学び事でも同じではないのか?と。

 

仕事で、何をするのか「作業」を指示されても、目的が分からなければどこに注意すべきか、何に留意しなければならないのかは伝わらない。結果、「言われたことはやりました」といったコミュニケーションの齟齬が。これ、仕事をする方ももちろんポイントはあるのだが、指示する方に責任はないのか?

 

学習でも、単にテキストだけを教えても仕方がなく、どうしてそれを学ばなければならないのか、使う場面はどこなのか?なかなか小学生レベルでそこまで踏み込んで話をするにはむつかしいところもありそうだけれど、それでも中学も2、3年、高校レベルでは十分にそういう内容を説明することで、納得できる生徒もいることだろう。

意味が分かれば、納得できれば、必要だと思う生徒は自主的に学びだす。それこそが教師の果たす役割ではないのかと。

 

…とまぁ、そのためにはそれなりの施す側のプロフェッショナル意識が必要にはなるのだけれどね。