意識の深いところで

先日驚いたのは、某有名女性誌の特集が「共感力」だったこと。ネットの力、インスタグラムの対等はここまで来たのかとちょっとびっくり。

 

これを見て気になっていたことを再度考えてみた。

 

別に海外津々浦々まで明るいわけではないけれど、特に日本では「共感力」が重視され、話の中でも、共感してもらえたり、「そうだよねー」とか「そうそう、わかる!」と言ってもらうことに注力している場面はいくらも遭遇する。

であるがゆえに、「共感」こそが、仲間になるための必須ツールとなっている節があり、転じて「共感できないようなやつは、仲間ではない」ような空気はないだろうか?

 

海外の知人などを見ていても、確かに共感は大きな力になり、人と人とを近づける強い引力になりえる。

ただ、海外の知人の場合、たとえ「君は好きかもしれないけれど、僕は嫌いだな、それ」となったところで、共感を得られない場合においても、知人となりえる確率が高い気がしている。もちろん全面的に違いがあれば友人にはなりにくいであろうけれど、「そこは共感できないけれど、別のところでは理解できる」といった場合、ちょっとした共感の有無と友人関係とは関係ない、切り離されている気がしている。

ところが日本では、すべてに共感できないと、大半以上で共感できる間柄でなければ、そもそも友人関係が成り立たなかったりしないだろうか?もちろん、そうでない人もいるのだろうけれど、比率として、「共感」を重視する人が、海外に比して高い気がしている。

 

であるが故の、「いいね」に対する「いいね返し」だとか、共感に対するアンサーとしての共感が半ば強制的な「空気」を生み出す。それこそが、「私と違うあなたなら、受け入れない」という事であるにもかかわらず、共感を返してこないことに腹を立てる人がいる。

世界に一つだけの花…をはじめ、みんな違って当たり前…などが「美しく」もてはやされ「言語化」されているところは確かにある。けれど、逆に言えば、これが「わざわざ」もてはやされている状況こそが、心の奥底では実は、「…でもやっぱり同じである方がなじみやすいよね」という裏返しなのではないだろうか?

 

で、自分はどうかと考えてみる。全然表面的に共感できないところもあるけれど、一点でも認められる世界に身を置けるのか、と。