真実を諦めたら

どうも印象として、最近のメディア、とくにテレビというメディアの「おもねり感」がひどいようだ。ニュース番組もあるのだけれど、あるニュースは流れないとか、軽く流して時間をかけないとかとか。

逆に、エンターテインメント、お笑いやちょっとした日常情報に特化するだけで、「お得感」は得られるかもしれないけれど、権力には逆らわず、実質的になびいてしまっているように感じられる人も少なくなさそうだ。

 

とは言え、メディアや、そのメディアが担うべき役割の一つとしてのジャーナリズムの責務の一つが、権力の監視だったりすることを考えると、そもそも役割を十分に果たしていない局、偏った仕事をしている局はいくつもありそうだ。

 

これは両方の側面がありそうだが、こうなってしまったのも、結果として、「ネット」という配信機構が徐々に構築されてきたことにより、いわゆるそれまでのテレビ、ラジオメディアでは、今はできそうにないものが流せるようになって、それまでのメディアは自主規制で自らの首を絞め、新しいメディアがある種のアングラ的ポジションから這い上がろうとしている、まさに過渡期なのかもしれない。

 

となると、なにか後ろ髪を引かれるかのように、権力におもねるよりも、もう「スッパリ」とエンタメや、日常に割り切ったジャーナリズムを捨てたメディアになるというのも、「道」ではあると思う。果たしてそれで今後ずっと生き続けられるのかは知らないけれど。

いわゆる真実、ニュースは諦める。まさにポストトゥルースの時代にふさわしい「メディア」の在り方だろう(これ、皮肉だからね)。

 

逆に真実を求めようとするとコストがかかる。昨今の有象無象が、根拠もなく作り上げたうわさ話やネタ話をきれいにふるいにかけて、真実だけにして伝えるのは、今まで以上に大変で、むつかしくなりつつある。

となれば、需要と供給が満たされるところで、それだけの大変なコストを払ってでも、裏の取れた真実が欲しい人向けに、ニュースは提供されるようになる日も近いかもしれない。「質の良い情報」は「価値ある情報」でもあり、それこそ、「対価を払っても欲しい」という人が出てきても不思議ではない。需要と供給のバランスさえ取れれば成立するサービスだろう。

 

すでに、ニュース、真実のコストはそうとう増している。ネット時代で、昔なら手にする事すら難しかった情報が多数出てきているメリットと、真の情報と雑音を切り分けるコストとをどこまで負担するのか。誰がそれでも納得するのか。

「いいじゃん、安い方が」とか、

「いや、今のままでいいよ」とか、

悪いことに対する歯止めをかけなくても、今より悪くはならないよ…と楽観的に構えていていいのか。たぶん、個々の人々の意識と備えこそが安きに流れ始めたところを契機に、たぶん10年後、30年後、50年後のこの国の道がきまりそうな、そんな悪い予感がしている。

我々の次世代に何を残すのか、我々だけが良くて、後にはゴミばかり、ひどい環境ばかりを残していても、「僕らはよかったからそれでいい」のか。たぶん、誰でもない、僕らは未来の(もし国が存続しているなら)日本人に、文句を言われるのか、尊敬されるのか、ここ3年で大きな岐路として決断をしているような気がしている。