メリットはデメリットを連れてくる

すべての物事には、必ず誰かにとっての「メリット」が存在し、であるがゆえにほぼ間違いなく別の誰かの(場合によっては同一の)「デメリット」を伴う。

そのデメリットが、今では価値のないと感じられる部分であれば、その提案は割合簡単に受け入れられることになる。

だが、そのデメリット部分が、今でも価値の源泉になりえるところであればあるほど、その提案は、メリットを受ける者と、デメリットを受ける者での妥協点を探る作業に他ならなくなる。

 

結果的には「どのように妥協するか」であり、それは今のままではなく、この先どのように変えていくのか、変わらずに行くのか。痛みの少ない変わり方は何か…に、ほぼ集約されるのではないだろうか?

 

変わらずに、未来永劫そのまま続く…という事はあり得ない。経年劣化するであろうモノは、物理的なモノのみならず、制度やルールも同じこと。だから時代に合わせ、環境の変化に合わせて、変えていかざるを得ない。…のだが、人間と言うのは不思議な動物で、「自分の考え方を変える」のが苦手な動物らしい。

 

いかに自分の思考を柔軟に対処させていくのか?

私はこのためにも、「無駄こそが大切だ」と考えたい。

昨今、効率化が叫ばれ、非常に効率がいいことこそが美徳や価値に思われがちだ。が、究極に効率がいいという事は、それ以外の対処はなし、あり得ない、と言う状況。

しかし、自然が、環境が「変化」を突きつけてくるときに、それでは対処できなくなるではないか?実はその表れの一部が、心を病むことではないか?とさえ思えてきたりする。

現代社会に効率よく対処しようと自分を組み立ててきたものにとっては、その効率以外の部分は受け入れられない。が、現実には何らかの変化を伴う。その歪み(いや、実際には必ず必要な対処のための余裕)が無ければ、ポキンと折れたり、心を病んだりするのではないだろうか?

 

だから、ある限度以上に「効率化」を求めすぎると、それはシステム自体、その系自体が破たんしかねないのではないかと考えたりもする。

もっとも、それを言い訳に、自分が楽をしようとする輩が大量に存在するからこそ、無駄を取りなさいと現場は究極の状況を突き付けてくるのだが。こればっかりは「うまく立ち回ってね」としか言いようがない。私が子供のころに一番嫌いな言葉だったのだけれど…。orz