それから得た教訓

優れた人は、歴史から学んだり、自分の経験から学んだりと、さまざまなところからさまざまな形で教訓を得る。ただこの教訓は、それが指し示す「正しい方向」で学習してこそ意味があるものであり、場合によって間違ったメッセージとして受け止めた瞬間に、当人やその組織の行動は、どんどんと今で言うところのブラック化していく可能性を秘めている。

 

トラブルや事故が起きた際に、その原因をきちんと突きとめ、これは二度と起きないようにしなければいけない…ということを繰り返して、システムがより洗練されたり、面倒だけれど安全側に倒したルールなどが出来上がる。それら多くは、組織や人間のためになる方向でやるならば、起きない方が良いし、その方がメリットになるからだ。

 

ただ、人によっては、そこから間違った教訓を得た人たちが出ているでしょう現実に。 

 

いまだに爪痕が激しい原発事故。この教訓はさまざまあるだろうけれど、一つは、「やはり正しく廃棄するコストまでを見据えてみると、原発は高い買い物だ」という事のはずだ。今の世代「だけ」から見れば安く見えても、50年後100年後の世代に廃炉費用を押し付けるのはお門違いだと思うのだ。

とは言え、明日からやめる、という事もむつかしいのはその通り。なので、「やめる方向で、軟着陸案を検討実行していく」という方向性を打ち出すべきというのが、「私が得た」教訓。

 

しかし、たぶん一部の人々、特に事故当時に偉かった人たちはこんな教訓を得たのではないだろうか?「こんな手が出せなくなるもの、危険なものを扱っていて、回復のための手が出せないような甚大な被害を出したとしても、適切に責任が問われない」という教訓…ではないですか?

対処の仕方それ自体がメッセージになる。そして、この対処を一度間違えると、それ以降の振る舞いが途端にむつかしくなるというのも道理。正しく理解され、その後の処理がなされないと、それが前例になり、あとの世界が歪み始めませんかね。と、今こんな小さなところでつぶやいていてもね。 orz