それは自由を捨てていないか

ルールで、法で決められる。それによって良くなる、強制力がある、というのは一つの考え方であり解決策だ。

だがどんな組織でも、グループでも起こりうることだけれど、そうして一つ一つを明文化したルール化することにより、ドンドン窮屈になって行かないか?

「それが窮屈なら、より細分化して、条件を明確にしたルールにすればいい」と言う人もいなくはない。もちろん「理論的には」それで対応可能だけれど、本当にそれでうまく行くと思っているのだろうか?事実上、条件は「無限」に出てくる。それを逐一ルール化し、そしてそれらをみんなが覚え、一つの間違いもなく運用する…なんて世界で、活動できるだろうか?

 

…となると、ルール化、明文化は、ある程度の前提条件をもって設定されることになる。でも、それにより、細かく分けられれば自分はその反中には入らないはずなのに、その粒度でルール化されたばっかりに、「絶対にしなければいけない、やらなければ罰せられる」こと、になったら?

それはある意味、やらなくてもいい自由を捨てさせられたことになっていないか。

そう、やらなくてもいい自由って、実はとても大きく無いだろうか?

 

憲法にせよ法律にせよ、義務として、逃げられなくなるように、やらなければいけないことを「国」が押し付けてくる項目が増えつつあること…が、昨今の気持ち悪さ。

幸い?なことに、今の政権の人気に陰りが出てきたことで、あまりに強硬的手段には出られなくなりそうだけれど、それでも決められてしまった法もある。

結局、「国ありき」の上に国民が存在しているといった匂いがプンプンしていた。

でも、「人ありき」で国が存在するんでしょ?

人口が減りつつある昨今。日本人が0人の日本国…なんて、冗談にもなりゃしない。

 

自由は、持てなかったり、失ってみたりして初めて分かる痛み。そういう意味では「健康」と似ているかもしれない。だからこそ、健康なうちに健康維持に気を付けるように、自由なうちに、自由を守り続けないと。