学びは「旅」に似ている。

旅をすることが目的と言うよりも、旅をすることによって得られること、たとえば人との触れ合いもそうだし、その土地の文化に触れることもそうだし、さまざまな、場合によっては当初予想もしていなかったことを知れる事こそが、旅の醍醐味でもある。

 

本来の「学び」もそのはず。それを「学ぶ事」が目的ではなく、それを学んだことによって、今まで知らなかったことを知ることができたり、その学んだ先に広がる世界が見えて来ることで、探求心をくすぐられたり、物事の本質を知ることができる、知る楽しみが分かるからこそ、学ぶところがあるはずだ。

 

だが昨今の多くの「学び」は、「学ぶこと自体」を目的としがちではないのか。単語、用語をいくつ覚えた、それはどういう意味かを理解した…。そんな「暗記するだけ」では、最初はよくてもすぐにつまらなく、苦痛になり始める。50覚えるより100、100覚えるより200…と数の勝負になり始める。それだけが「学びの本質」ではないでしょうに。単調さの先の究極もなくはないけれど、やはり広がりを持った、さまざまな探求の方が、刺激も多いだろうし、興味の可能性も高まるだろう。

 

「旅」が、鉄道で行こうが、飛行機で行こうが、車やバスで行こうが、そのそれぞれに楽しみがあるように、移動手段はどれが良くてどれがだめだ…というモノではない。
そう考えると、「学び」においても、こうやって学ばなければならないとか、この方法、この順番で覚えなければならない…というモノでもないだろう。また、当初はこっちは習わないけれど、知りたくなったら別の方法を知る…でも良いではないか。

とは言え、「効率的に知る」という方法もあるだろう。それが突き詰められている一つの形が、たぶん今の教育手法なのだろう。だがそれになじめない人、面白いと思わない人もいる。多分最悪なのは、「学ぶこと自体に嫌悪感を覚え、今後の知る楽しみ、分かる楽しみを捨ててしまう人」を生むことではないだろうか。

 

自分が知らない事を知るという事ほど、刺激を受け、興奮し、時に楽しく、時に驚きをもつことはそうそうありえない。そして、そうした刺激を「自分で生み出すことができる方法」こそが、学ぶということ、学習する、勉強するという事。

その意味では、昔から連綿とつながる日本における学習方法の多くは、そうした「楽しみ」をうまく伝えられておらず、「いかに効率よく学ぶか」といった詰込みの方向にのみ進化していないだろうか?
(…と、これを描きながら思う事は、昨今の日本の働く現場においても、「効率化」ばかりを考えて、生きる事、働くこと、人生における働くことの意義、会社の意味…なんてことをないがしろに、「安く生み出すロボット」を作るための進化の方向にしか進んでいないのではないか?ということか。)

 

本当に、真の学びに出あえれば、結果として多くの人々は楽しくなり、そして便利になり、たぶん経済的結果も生み出されることになりえる。

…と、そんな理想の社会は夢物語なのだろうか?