クリエイティビティ

仕事柄、日々の仕事をきちんとこなすことと、今までには想像もできない価値を生み出すことの両方に接する機会がある。今日はその後者の話。

 

今まででは想像もできない価値を生み出すということは、言い換えれば、今までの価値基準では測りきれないという事のはず。…であるにもかかわらず、その「将来において想像もできない価値を生み出す何か」を採用するかどうかの基準として、「今ある測定基準で合格しなければならない」と言うところが、やはり多くの組織における大きな課題になっている。

 

「今ある測定基準で合格する」という事は、少なくとも今の延長線上においては、今あるなかで上位に位置する価値、と見いだせるという事を意味する。だが、価値観を破壊するような大きな転換においては、「今までの基準では理解できないからこそ意味がある事」こそに価値があるはず。

しかし、「今までの基準では測れない」と言うのは、そもそも全く意味がないというものと、全く理解できないという事の両側面を持っている。

 

そう、「理解できない」ことをもってして「意味がない」と理解しがちだという事。

 

しかし、ある種の真の価値はそこに潜んでいることがあり、「理解できなくても、それは、今の私であるからであって、将来的視点に立てばどうなのか?は分からない」という可能性に触れることができる決断者がいれば、そこで審議の対象に引っかかりえる。

 

ただ、昨今のようにすべて効率ではかられる日本において、そもそも「成功確率」が高いことばかりを選択しているようでは、当然ながら、そんな(その人においては)博打のような決断はまず無理だろう。こうした決断は、余裕があるところにしか生まれない気がしている。余裕ある資金、余裕ある期間、余裕ある市場、今ある事で手一杯であれば、誰もそれに手を出さないし、手を出せない。だから、ある種の「起爆のための余裕」を残しておかなければ、発展も、変革も、生まれえないはずではないのか。

 

今の日本では、大人になれば余裕を搾取される、搾り取られる状況にある。人に依っては学生のころからそういう場面に身を置いている人もいるだろう。そこでどれだけ自由にふるまえるか、さまざまな価値と触れ合うことができるか。クリエイティビティの源泉が枯れつつあるのではないかということに危惧している。