訓練の意義

9月、防災訓練があちこちで行われることがニュースになる。

学校で、会社で、自治体で、それまでに入念に準備した避難行動訓練を、それぞれが行う。

「今日は〇〇訓練です。」

 

一部の本格的な訓練はともかく、多くの学校で、会社で、みんなが行ったことのある訓練とは、ちょっとした広場にとりあえず非常階段を通じて出て、10分ほどの講話を聴いて終了…てなものが多いのではないか。

さらに、こうした「訓練」自体の評価が、「混乱なく終えられたこと」などということになっていたりしないか。

 

日々の業務、授業の観点から言うと、それら日常を乱さずに、最短時間で終わる事こそに意味があると考えるのは、ある意味正しいのかもしれない。けれど「訓練」という立場で考えて、本当に「混乱」が起きなかったことは正しいことなんだろうか?シミュレーションになっているのだろうか?とつくづく考える。

 

シミュレーションや訓練の意味は、当然ながら何等か想定外の事が起きたことにどう対処できるか?こそが勝負の側面がある。それを、効率よく外に出ました、講話を聴きましたで終えてよいのか?

 

「おざなりの訓練」こそ、オオカミ少年効果ともいうべき、あぁ、またこの程度なのねといった慢心を生みはしないのか?そして結果として本当にそれが生じた際に、これは?あれは?といった混乱を生みはしないのか?

 

ただし、すべてにおいてそうだけれど、「完璧に準備しきる、すべての事態に対応できる」なとどいう環境、状況を作ることはムリでもあるし、当然お金も、時間もないだろう。となれば、いかに「突発性にたいして対処できうるか?」を訓練すべきであり、それは上記のような「明日、〇時ごろに、避難訓練があります」では到底対処できない事ではないだろうか?という事。

 

その行い、意味ありますか?何をしたいですか?何をできるようになっていたいですか?それは、その訓練の仕方で大丈夫でしょうか?