それはどこから生まれてくるのか

アベノミクスのメッキがはがれかけているらしい。三本の矢などと語ってきたのはいいけれど、どうやら第二、第三の矢は実質的には放たれていないに等しいのではないか?といった意見さえ目立つ。財政健全化という視点もあるものの、当然のごとく景気が回復すれば、良い方向に回りだすはず。なので景気を回復させなくては、そのためには「今は」多少ばらまき気味かもしれないが経済を刺激せねば…といった論調が続く。

 

他方、企業はと言うと、こちらは明確に「内部留保」を大幅に積み増ししてきている。将来何が起きるかわからない。そもそも日本における労働者人口が減少し始めるのは目に見えている。それらにそなえて企業が倒れてしまえば、そもそも労働者建て雇えないわけだし。だから「企業」が保身に走る。結果として「内部留保」が積み増され、企業としては、万一の事態に備えようとする。そのうちの数%でも雇用者、ひいては消費者に還元されていれば、どれだけ景気は潤うのか…と思うのだが。

 

実質はそうではなく、雇用者の仕事効率を上げようと絞り上げる。無駄時間を削減し、残業を減らし、しかし今まで以上の売り上げ、成果を求めてくる。当然ながら、いままでは「少し」余裕のあった仕事現場、作業現場からも、それらが削られることにより、結果として「余裕」が削られる。となると、ちょっと遅れていたり、ちょっと手間取っていたりすると、ひどい場合は怒声が飛ぶ。

「何遅れてんだ!」

「何やってんだ!」

「そんな遅れる、手間取る時間なんてねぇんだぞ!!」

 

日中、仕事時間中がこうなのだから、仕事が終わったとしても、いきなりモードは変わらない。だから通勤中、道端、電車の中、雑踏の中においても「余裕」がなくなる。

ちょっとした遅さ、手間の時間が気になる。もう少し早くできないのか、急いでくれ、早くしろよ!

 

だがそんな、個々が急ごうとする結果、全体として無駄が生まれ、全体としての効率が下がる事がある。ある意味、今削っている結構多くの「余裕」や「無駄取り」が、結果として意味をなさない苛立ちを生んでいないだろうか?

 

余裕あるところには配慮が生まれ、気配りができるようになる。互いに助け合い、保管することができる。少し余裕ができれば、視点にも余裕ができ、結果として「全体最適」が見えてくるようになる。

 

こう考えると、ちょっと極論かもしれないが、「景気」は「余裕」から生まれていないだろうか?苛立ちは「摩擦係数」をあげるばかりで、スムースに物事を進める事には何ら寄与しない。

そんなことを考えてみた9月。