センスとロジック

美的センスに優れている人がいる。運動のセンスがある人、音楽のセンスがある人、リズムのセンスがある人等々、人それぞれに何らかの特技、秀でている部分がある。そしてそれが「センス」と呼ばれることが多い。

 

ただ私が個人的に思うのは、それを「センス」としてくくってしまう事で、それより先の追求をあきらめているのではないか?ということ。

確かに、今それぞれが持っているセンスは、「どうしてそこで、右ではなく左を、前ではなく後ろを、その色ではなく別の色を選ぶのかは分からないけれど、自分としてはそうしたい」といった決断の連続として、結果、全体のある種の統一性、バランスをもって、「センス」という言葉で表されることはある。

だがたぶん、それは「自分では認識していない何らかのルール」によって選択されている事ではないのか?そして「そのルール」を言語化、明文化できていない事を「センス」とひとくくりにしてしまうことで、ある意味ごまかしていないか?ということ。

 

そこを突き詰めると、たとえば前に出すぎているからそこは後ろに、という割合を、数値化できるはずだし、なぜその色を選んだのかもわかるはず。たぶん、それこそがこれから発展するであろうAIの境地になりそうに感じているのだ。

 

いまのAIの学習方法のほぼ多くが、どうしてそれを選ぶようになったのかが分からない、ある意味ブラックボックス化されてしまっているところが一つの課題として挙げられている。ある意味ロボットがセンスを会得している状況。しかし、人間がくみ上げたロジックの集合体なのだから、時間さえかければ解析はできるのではないだろうか?

要は、全体は単純ではないが、何十段、何百段にも「折り重なった単純」により生み出される複雑さとどう対峙するのか?という事こそが、AIとの対峙であり、センスとの対峙のような気がしている。

 

すべての優秀な人々のセンスがすべて解明できる日が、そうそうすぐに来るとは思えない。だが、簡単なレベルのセンスであれば、それは、あきらめなければルール化できたり、もしくは習得できたりするのではないか?それこそが簡易AIなのではないか?

 

ただ、そこはAIの強みでもある「大量の何かを覚え続ける事」に確かに利があるところかもしれない。要するに単純の山積み状況。そして、いままでは人にしか習得できないと思われていたセンスのような、一般に「感性」と呼ばれるものでさえ、マシンにとってかわられることに恐れを抱くかもしれない。