タイトルの意味が変わってきていませんか

私が小さいころ、小学校4、5年のころの学習だったかと思う。新聞記事を読むといった学習内容があったように思う。

新聞の面の意味、1面と3面の意味の違いから始まり、一つの記事でも、大見出し、中見出し、小見出しがあり、そして本文があった上で、その中で、5W1H的に内容を整理して伝えているといった、「記事の構造」の理解が促される。

ざっくりととらえれば、キャッチーでほぼ瞬間に理解できる大見出し、それを補完する中見出し、それで満足できない人に一通り内容を伝える小見出し、詳細は記事本文で、といった構造。

 

でも、たぶんこれはネット時代になって、記事の書き方、意味合いが、微妙に変わりつつある事による気がしている。

 

その変化は、別に「ネット上」でのみ起きているとも思わない。

最近は、たぶんネットメディアに押されているのか、言及されているところを目にしないのだけれど、「東スポ」の売られ方がネタになっていた時期がある。

それはというと、大見出しのタイトルが、絶妙に気を引くタイトルになっていて、その「折り目の下」を見たくて売店に向かう人、何人かいたのではないだろうか?

結果としては、大した記事ではなく、タイトルの下の部分を見てみると、「?!」といったマークがついていて、気分的に「おいおい!」となることが少なくないのだけれど、それも含めて東スポだし、といった行為自体がネタになっていた。

 

それが今、ネット上の記事、それもみんなに見られるところにまとめられているような、Yahoo!や、はてぶといったところで使われる「タイトル」において、そういう「ネタタイトル」が先行し始めていないかということ。

すでにそこには「大見出し」としてのタイトルの意味はあまりなく、キャッチーな、人の目を引く、「おっ!ほんとうか!」と「目を引く」「心をひく」「意外性を感じる」タイトルが乱発する。
が、中身を読んでみると、いやいや大した記事じゃないとか、そもそも記事にするほどの内容も無いような記事になっている。

 

これの真意はどこにあるのかと言うと、それは評価基準に集約されるのだろう。要は見られた数、ビューの数で記事が評価され、ひいては書いた記者が評価される。であるから、できるだけ見られやすいように、読者の気を引く、目を引くタイトルに工夫せざるを得ない。いくら良い記事でも凡庸なタイトルでは、そもそも目に留まらないし見られない。見られなければ評価されないという事。

 

まぁ昔から変わらないと言われればそうではあるのだけれど、その状況により読む側の能力、リテラシーが変化せざるを得ないということにつながってくる。が、歳を経てもう変化に対応できない人、そもそもリテラシーなんてことを意識したことがない人、まだ小さな子供などにおいては、そうした個人で意識改革を起こす考えすら出てこないかもしれず、結果としてメディアに先導されかねない事に。

 

時代は動く。メディアは動く。

メディアはメッセージなのだから、それが発している内容を、如何に捕らえるか?現実はというと、メッセージとして意識しないほどに浸透してしまう事の恐ろしさを垣間見ている気がしてならない。

 

…と書いている、自分も、意識できていない事がきっとたくさんあって。

だから、意識できていない事を意識しなければいけない…という矛盾があって…。