教えるべきこと、学ぶべきこと、最適化

無人島に男が漂流した。それを見つけた神が彼に施すべきは、「魚(食料)」か、「魚の取り方(食料の獲得の仕方)」か。

 

もしも前者(食料)を施すならば、それは今後もずっと、彼に施し続ける必要が出てくる。だが後者(食料の獲得の仕方)なら、一度学べば、うまく行けば今後ずっと彼は自立して生き続けることができる。そして多くの場合、それを「教育」と称することがある。

 

ただ、「教育」とは得てして高度な知的知識を必要とする。そのための前提として覚えるべきことも出てくる。この「覚えるべきこと」と、そうして覚えた基礎知識を利用した「考え方」を意識していない/できていない、もったいない人がいる。

そんな人の多くは、とにかく全部を「覚えよう」としがちだ。そしてそういう人の多くが、記憶することは得意だったりもする。

だが、覚えることはいいとしても、それをいかに応用するかが苦手であっては仕方がない。場面によって、「あぁ、これは前のあれと似ているから、おなじようにすればいいかな?」とふるまえるかどうかで、覚えたことが「応用できる」に変化していく。そう、考えなければならないのだ。

 

実はコンピューターの初期AIは、まずは知識ベースを増やすこと、すべてを覚えさせようとするところから始まった。が、当然ながら、それらはすぐに行き詰る。なぜなら「すべての生じうるパターンを覚えさせなければ、ほんの少し違う場合であったとしても、それには対処できない」事になるからだ。

 

そこを脱却して、同じような事をを同じような事だと認識し、それに過去パターンを当てはめることができ始めたのが、その次の世代。それとコンピューターの能力が向上したことによって、結果、将棋や囲碁で勝てるほどにまでコンピューターが成長した。似た状況を似た状況として、同じように振る舞うことが許容できるようになってきた。だからAIは、「すべてを知っている」のではなく、「過去パターンから想像できるところ」に向けて進化しているということ。

 

だからこそ、我々人間ももちろん、「言われたこと」だけでなく、それを「応用」できる状況にしていく必要がある。そのためには、その状況をとらえ、考え、それに最適な過去経験を適応していく必要がある。

ただ、人間の身体に持つコンピューターたる「脳」は、ある意味で優れた処理能力を示すのだけれど、別の意味では能力低下も激しい。疲れたり、単純作業には比較的弱いし、強度のストレスにも弱かったりする。
昨今の労働環境を省みると、単純作業が増えたり、ストレスがきつかったりと、結果的にそもそも「脳」を効率的に使うという観点からは真逆の方向に動いていないか。

何をもって人は繁栄したいのか、どうすると効率がいいのか。今一度、個人の、組織の効率、パフォーマンスの観点から考え直してみたいんですけど。