キャリアプラン

サッカー選手で、すごいストライカーだの、すごいミッドフィルダーだのと成果をあげていたとしても、はい、では次期監督をお願いしますね…とはいかないようで。

それにはちゃんと監督としてのトレーニングを受け、資格を取って、その上で監督業に着くというのは、ある意味正当なキャリアプランに見える。

 

他方で同じスポーツでも、名選手だったから…と監督要請するなどと言う話を聞くのが日本の野球界ではないだろうか。選手時代にあれだけの功績をあげたのだから…と、選手上がりで(すぐに来年から…ではないにせよ)監督に就任したりする。

もちろん、それで成果を出せる人もいるのだろう。だが、こういう言葉もある。名選手必ずしも名監督ならず。天性の持つものを持って名選手として名をあげた選手であればあるほど、当人には天賦の才としてすんなりできたことが、監督となった今、どうして現場の選手達にそれができないのかが分からなかったりする。自分が現役のころには思ったとおりに身体が動いていたので、それを「誰かに伝える」という事をそれまで意識できていなくて、選手に伝わらなかったり。要は何がわからないかがわからず、と、どう伝えたらいいかがわからず。
逆に、選手時代にはさほど目立った成績を上げていなかった人でも、自分が当時分からなかった、努力してきたところを、教える力、考える力を持って監督やコーチになることによって、大きくそのチームを育て上げるのに貢献する人もいる。

 

やっぱりその組織組織における、「そのポジションに必要な実力」というのは、下のポジションでうまくできたから…というのとは、少し違うところがあるのではないかという気がしている。「それ」がその役目の仕事。だから、極端な場合、下積み時代に実力が発揮できていなくても、いきなりまとめ役になった瞬間に実績を生み出すものが出ることもあり得るだろう。

 

日本においては、まだまだ新卒が大量採用される慣習がある。いわば年功序列が残り続けている。そんななかで、就職し、エンジニアとして育っていったその先は、マネジメントなのか?というのがどうも引っかかるのだ。

もっと言えば、「技術を突き詰めた先のキャリア」が、日本の中では「マネジメント」という形にならざるを得ない事に、非常に違和感を感じている。
もちろん、会社によってはそのあたりをいろいろ考えて、さまざまな社内でのタイトルを用意しているところもあるのかもしれないが、それでもその会社を離れてしまえばそれまでという事が多い。

 

結果、「日本の会社」という中において、エンジニアが軽んじられている、その実力を正当に評価できないでいること自体が、結果的に正しい地位、権利、報酬を得られない根源になっているのではないだろうか?
もちろん、これまでにも素晴らしい実力を打ち立ててきた日本のエンジニアたちは枚挙にいとまがない。が、彼らが億万長者になったなどと言う話はついぞ聞いたことはなく。海外であるならば(お金のみが評価ではないとは思うけれど)大きな報酬を得て、悠々自適に自分の興味の赴く方向で暮らしを立てているエンジニアの話を聞くこともあるのに。

 

エンジニアの良心に甘えていないか?それでこの先、「日本」という国は回していけるのか?そんな観点でも考えをめぐらしてくれる、技官や官僚は出てこないモノなのか。

この国はこの先、どうやって食べていくのかな。すでにマネジメントも後塵を配している会社はたくさんあり、技術も後追いだったりしたり。ふと気がつくと数年後に、何処かの国の下請け国になってやしないだろうか??