合理的判断の前に

そもそも経済学などの前提として、人は合理的に判断する、という事を前提に理論だてられているものがある(今はそうでないもの、確率論などもあるようだけれど)。

 

もちろん、マクロに見れば合理的判断につながっているところもあるのだろう。だが、個別の心理においては、必ずしもそう判断できていない人もいる事だろう。

そんな個人がいたとして、何かの決断を下すのを迷っているとき、自分だけではどうしても決断できずに、誰かに相談したりする。そんな時。

 

その友人が、冷静に、客観的に、今の現状をかなり正確に分析し、

「だから選択肢はこれとこれだ。合理的に考えるとこうしたほうがいい」

と助言を与える。これにどう対応するか、できるか?だろう。

 

たぶんまず何を言われても、どんな助言でも、まず間違いなく迷うだろう。

「そうか、でもなぁ…」

それでも言われた通りの選択肢を選ぶ場合もある。この場合何が起きているのかと言うと、合理的判断に従ったとも言えるが、とにかく自分の中で決断しうる「納得」をしたということではないだろうか。

その判断に従わない場合、たぶん現実にはこちらの方がよく見るケース。それは合理的判断そのものを疑い、もしかしたらまだ見落としている何かがあるのではないかと疑ったりする。要するに納得できていないという事だろう。

 

結局物事はいつも同じで、どこまでのデータをもってして「現状十分なデータ」とするかで迷い、そしてそれを用いて「客観的分析」をどのような手法、切り口で見るかで迷い、その上で「合理的判断」と呼ばれるものに「納得」できるかできないか?という決断に至るに過ぎないのでは?

 

こんな不確実性、主観、自分の納得度ですべてが決められていくという事。どんな合理的判断も、多くは納得なしには進まないし決断されない。「それでも自分はそれを選ばない」という事はあり得る。

でもたいていその場合は、その先の「夢見る未来」があり、それ有木の決定を選びたいがための手段になっていたりする。より良い未来を選択するという目的ではなく、自分が選びたい未来に向けての手段を選択するという事にすり替わっている。

 

何はともあれ、ゴールと、手段と、それらを両手に持ちながら常ににらみながら、決め、進めていく。たぶん、死ぬまで悩むんだろうな。それが人生。

いつまでも決められない、逡巡の時間が積み重なる…と考えると、末恐ろしい。