制約とバランス
映画が好きだ。
劇場で見るのもそうだし、DVDやBDで見るのも嫌いじゃない。最近はネットでの配信なんてのも見られる便利な時代。
そうしたコンテンツだけれど、やはり作るほう、お金を出す方としては、そうそう失敗はできないと考える。だって一本作るのに、少なくとも数千万から億円。海外作品だと、場合によっては数十億円は普通にかかる世界。これを少なくとも回収できなければ…となると、それぞれのレイヤーに対する配分比率は置いておくとして、映画の場合、一人がザックリ一本2000円で見るとしても、たとえば10億の製作費をかけた作品なら、50万人が見てはじめて10億円の売り上げに。…と考えると、やっぱり脚本を吟味し、監督を吟味し、俳優も吟味し…なおかつ製作費は安くあげたくなる。
なにより、見に来てくれる世間のみんなに「みたいなぁ」と思わせるのがむつかしい。となれば、以前の続編とか、パート2なんて所だけででも最低顧客数を確保したいところ。
であるがゆえに結果的に、続編、続き物、スピンオフ作品などが軒を連ねる。
ただし、これはこれで作り手としては別の大変さがある。自由にできない、「前作の雰囲気を引き継いだ…」 とか「キャラクター設定」といった足かせをはめられることになる。自由にできる余地が狭くなるという話だ。
だが、どうやら人間というのは、多少の制約があったほうが、何かと作りやすいような気もしている。
どんな場面、職種でもいい、
「制約はありません。なんでもいいよ」
といわれると、どうも足がかりがなくフワフワしてしまって、落ち着きどころがない感覚はないだろうか?それに対して、
「…という制約の中で、なんとか面白いものを…」
というほうが、実はいろいろと「工夫」のやりがいがあったりする人を良く見る。
現実には、制約がないということなどありえない。どんな物事でも、時間とお金(と求められる品質)における制約は、必ずかかっているのだ。それを意識できている作り手かそうでない作り手か。
過度に恐れすぎるのも委縮をもたらす。けれど、湯水のようにお金も時間も使い倒すのも、それはそれでかけた時間とお金に比例したアウトプットにはならないのが世の常。あなたの立場において、あなたの立場でのバランス感覚を持つことの大切さ。
今年もどのくらい制約を意識できているのか、意識するのか、意識させるのか。この辺りを肝に進んでいこうかな。