スポーツとして、道具として

車メーカーの進化がさわがしい。

自動運転技術の発展がユーザーレベルにおいても目に見えるほどのレベルになり始めているところで、現実レベルとしての自動運転がいよいよこれから十数年で実用になりそうな雰囲気だ。

 

ただ、では既存の人が運転する車がなくなるのか?というと、たぶんそうはならないだろう。特に車という道具は、「人を運ぶ道具」だけではないというところに大きく起因する。

車の場合、それはスポーツの道具でもある。だからこそ、スポーツとしての車、運転すること、マシンを人が思うように扱う、操れることによって得られる爽快感などなどで得られるものは、やはり自動運転とは別次元、別軸の話だろう。

 

であるからこそ、それはもしかしたら明確に区別したほうが、結果的に効率的であり、社会的に効果が高いような気がしている。それは自動運転のエリア、それは人が操作するエリア…と。

当たり前だが、たぶん当初数十年は、人が運転する車と、自動運転する車とが混じることになる。たぶんそれが一番事故の可能性が高いのではないだろうか?また自動運転の性能がなかなか十分に発揮できない世界になりそうだと言う想像も見える。すべてが自動運転の車になり、基本、人が運転する車は「町中を」走り回らないことになれば、たぶん将来的には事故はまず起きなくなるだろう。
しかしこれでは逆に、それでは「スポーツとして車を楽しみたい人」を阻害することになる。であるがゆえに、スポーツとして楽しめる場所、空間を徐々に制限していくという形での行政運営をイメージする。

 

私がイメージする遠い未来は、自動運転の車というリソースが十分に用意されている世界においては、社会レベル全体としての移動品質の向上に他ならない。

自動運転が十分に機能する世の中になれば、「車」という考え方が、大きく変革することになるだろう。ある意味移動のための道具というよりも、部屋ごと移動する意味では、もしかすると「どこでもドア」になるのかもしれない、と。となれば、車とは移動する部屋であり、家という不動産の中における動産部分という特殊な位置付けに。

早く来ないかなぁ。