流れていること

川は、水が流れ続けるからこそ川として成り立つのであり、流れがよどんだり、止まってしまったりすると、当たり前だけれどそれは川ではなくなってしまう。

 

人の営みにおいても、多くのものは流れている。

食料は、毎日購入され、日々食され、老廃物としてそこから出ていく。という人の根本があるがゆえに、それを購入するための「お金」も流れなくてはならない。

貯まる「だけ」では意味がなく、それが何かを生み出したり、作り出したりするからこそ、まさに「川」と同じことが起きる。

 

たまに「銀行にはお金がたまっているだけ」と勘違いをしている御仁がいらっしゃることがあるようだけれど、銀行とは「お金」を誰かから預けてもらい、それを別の誰かに「使ってもらう」ということで、その差額を手にしている。そこを通過させる中で価値を生むという事。

別に銀行に限らない。メーカーは、材料会社から材料を買い入れ、それを製品にして世に出していく。要するに「右から入れて、何か価値を加えたり出したりして、左から出す」。すべてのものはこれで成り立っているということ。

 

これがうまくいかなくなると、人体では「便秘」という状況になり、家庭においては「ゴミ」などがたまったゴミ屋敷を生む。

 こう考えると、何かを入手したと同時に、どうにかして出していかなければ生きていけない。通過の際に価値を生み出さねば、その通過させる意味すらなくなるということ。

 

インプットばかり多くてもアウトプットされなければ、無駄がたまった「ゴミ屋敷」になるのであり、アウトプットばかり多くても、そもそもの材料としてのインプットが少なければ、なかなか意味ある価値を生み出しにくい。

 

やはりここにもフロー、流れとしてのバランスが存在するということか。