共感する力は
それは想像する力でもある。
相手の話を聞いて、その状況、心象などを想像できなければ、たぶん共感できない。
だからこそ経験豊富なお年寄りが話を聞くのがうまかったり、共感してくれやすかったりするのだと考えている。
男性は、女性に比べて共感する力が弱いなどと言われることがある。この理由としてこう考える。
特に日本の場合には一般的に、ジェンダーの差が無いように行動や発言を、などと「表面的な言葉」としては言われている。とは言うものの、実質としては「男」という役割に課せられているところは、共感で何とかすることよりも、解析や決定で目的へと進めるほうが話が早い、確実だから、ではないだろうか?もちろん、共感したうえで前へ進めるのがうまい男性もいる。そういう人の多くが、人の上に立ったり、リーダーを拝命したりしていることが多いようにも感じている。
逆に共感する力が弱い人、意識して共感しないようにしている人には、(多分男女問わず)人はなかなかついていこうとしないのではないだろうか?
ネットの時代になって、SNSの時代になって、人の投稿に、発言に、共感を「迫られる」ことが多くなった。これをいやだと思う人、めんどくさいと思う人、適当にこなせる人等々、それ自身がなにかの力の使い方のレベルを表しているともいえる。
逆に、投稿する側としても、人に共感をもらうこと「のみ」に命を懸けるほど力を入れている人、それでもあまり共感されずにしぼんでいる人、共感のためにでっち上げたりする人、共感をあきらめてやめてしまう人。これらもこれらでその人の行動を表しているといえるだろう。昨今はやりの承認欲求度合いなのかもしれない。
ネット以前にせよ、ネットの時代にせよ、多少なりとも誰かに認められたい、それはだれか人の役に立っていると実感したいということだろう。マズローの欲求段階説が有名なところ。
でもこれとて、承認を「与えられる」ことだけを待っていてはいけないのではないだろうか?
ギブアンドテイク。
与える人には得るものがある、ととらえることはできないだろうか?自ら与えもせずに、もらうことばかりを考えているようではバランスが狂う。
そもそも「共感」など、与えたところで損はしないんだから。