脅威か希望か

近い将来AIが発達すれば、現場の仕事の50%近くは無くなるだろうと言われていたりする。割合はブレがあるので置いておくとして、これを聞いて、脅威と感じるか、希望の未来と感じるか?

 

私の知人のある人は希望を感じているという。結構ご年配ではあるけれど、「早く、完全自動運転してくれる車で旅に出たい」と夢を語る。

たぶんもう自分はリタイアすることも考えに入っているのだろうから、自分が働くことは考えていない。であることで、仕事が奪われる側の心配は小さいのかもしれない。

 

別の知人は、心配する側だ。自分がいま行っている仕事がAIに奪われるとするなら、自分は何をしなければならないのだろうか?と怯える。働き続けるために、いまでも厳しさを感じているのに、さらなる努力を求められるのか!と。

 

この「怯え」にはたぶん二つの側面があるのではないだろうか?

1) 一つは、そのAIというものがどんなもので、どんなことができるのかがわからず、理解できておらずに過大評価をしてしまい、何でもできる、すべてを奪い去られる恐怖を想像しがちだ。であるからこそ、実際にはまだ実現がむつかしい事象でも、自分が理解していないわかっていないことで、無駄な恐怖を抱いた結果ともいえる。

 

2) もう一つは、今自分が生み出しているものに、付加価値が出せていないという恐怖。価値が自分で感じられない、見いだせていない部分ではないか?であるため、それが別にAIでなくとも、別の誰かに置き換えられてしまうことで、自分以上の付加価値を生み出されてしまうのではないか?ということ。

 

1)については、AIを正しく理解することが必要。これはモノの本を読むのでもいいし、勉強会のようなものに参加するのが手っ取り早いだろう。思っていたほど簡単には、今のすべての仕事が奪えないのも見えてくるかもしれない。

2)については、そもそもAIのみならず、ほかの誰かに置き換えられたらという「競争」の観点を正確に捉えること。それはAIであるがゆえの問題ではなく、そもそもの仕事における「あなた」と「あなたが生み出しているか否かの価値」の問題。会社や上司の評価ポイントを確認したりすることのほうが重要になる部分があるのではないだろうか。さらに1)をしっかり学んだうえで2)の価値において、さらなる付加価値を生み出せるチャンスが広がるかもしれない。そうなってくると、「人間様」の独壇場。そうそう簡単にはAIなどに置き換えはきかないだろう。

 

AIに限らず、物事を良く知らなければ、無駄におびえたりもする。これに限らず、「学び」は最大の攻撃手段であり防御手段。

だからこそ、やっぱり死ぬまで何かを学び続けることになるんだよね。