不快との付き合い方

なんでもできる人がいる。特段努力していないようなのに、そしてたぶん本当に努力らしい努力はせず、少し本を読んだり、一回目を通すだけで、本当に何をやらせてもうまくやる人がいる。こういう人は、それこそ何の問題もなくそのまま成長する人。本当に頭がいい、「天才」の名にふさわしい人。

 

じゃぁ自分もそうなりたいよ…とふつう思うじゃないですか。だからそつなくやれそうなことを「そつなくこなそう」…と真似をしてみても、当たり前だけどうまくいかないし、歯が立たつわけがない。チキショウ!なんでうまくいかねぇんだよ!と自分に腹を立ててみたところでうまくいくはずもない。最悪、どんどんと狭いところに追い込まれ、やがて、あきらめざるを得なくなってくる。

 

じつは、先に書いた「なんでもうまくできる人」も、全ての事象において何のつまずきも無いはずはなく、実はうまくできない瞬間があるはずだ。がその時、その人はどうするのかを見てみると、素直に習っているようなのだ。そして「そのできない事を楽しんでいる」人が多いように見受けられる。

「おっと、うまくできないや(笑)、どうすればいいですか?」

素直に聞き、素直に習う。そしてできない事を楽しみ、やがてできるようになったことを喜ぶ。そう、すべてが彼らにとってはすべてが楽しみであり、今できないならできるようになり、成長して、喜びにつなげる。そして本当に喜びにしている。喜びで成長できた小さなフックがたくさんできれば、それをつなげて次の何かも成長しやすくなる。そんな小さな差が、時間を持って大きな差に結びついていく。

 

ところが、うまくいかない人は「なんでうまくいかないんだろう」と悩み、習うことはあっても、イライラしたり、楽しめずに諦める。最悪「チキショウ!」で終わる。逆に、チキショウで終わらせず、時間がかかってもやり遂げる人は、時間はかかるが大きな何かを掴む事もある。上記の天才が持つスピードが足りないだけだ。

 

なのでチキショウ、出来ない!だけで終わらせる事なく、すべてを楽しめる人に、すべて何か前進があった形で終われる形に。それを喜びとし、自分が小さな成長したことで良しとする。たとえその時には完璧にできなくても、それがある事を知れたという事自体が一つの喜びで構わない。ポジティブになる人は、そうなるように、繰り返し自分で自分自身を、良いスパイラルへと訓練しているのでは?逆にネガティブになる人は、同じくそこで、繰り返し自分を負のスパイラルへと訓練しているのではないだろうか?だから、一度そのどちらかのスパイラルに入ると、登り続けるのか、下がり続けるのかが決まってしまう。

ただし、日ごろはチキショウ!と思っていても、時に何か偶然でうまくいき始めたら、ネガティブスパイラルがポジティブに回りだす。通常ネガティブの人が切り替わるのは、自らの意思で切り替えるのか、この、万に一つの偶然を待つのか。たぶんこの二つしかなくて。

 

これは、うまくいかないのみならず、嫌なこと、嫌な人、嫌なもの、不快と付き合う際も同じはず。そして、「不快」との付き合い方がうまい人は、実はより「快楽」の刺激も大きくなるはず。それは、物事のギャップにより生じるため、「不快」というマイナス要因があった上での「快楽」となれば、ゼロから始まる「快楽」によるギャップよりも、喜びも、心地よさも、マイナスからのギャップは当然、より信号として大きくなるのは当たり前のこと。

 

だから、「心地よさを得る」には、「不快とのうまい付き合い方」を模索してみるのがいいのではないだろうか?心地よさだけを探しているだけでは限界が。

「不快を楽しむ」。逆説的だけれど、でもたぶん、事実なんじゃないかな。