自由という名の

世の中、自由が欲しいとか、自由が少ないとか、自由を勝ち取れとか…。自由に関してはいかに自分が手にするか、我々の手にするかということが話題になることが多い。

 

でも、本当に「自由」なんだろうか?完全な自由が欲しいんだろうか?

こんなことを幼いころに経験したことはないだろうか。何をしてもいい時間がポッカリできたとき、余裕の資金ができて何を買ってもいい時。困ったことはなかっただろうか?

けっこう子供はこんな時、「遊ぶものがない」とか「買いたいものがない」などと文句を言ったりする。だがこれ、実は「自由」ではなくい「制約」を求めていませんか?

 

そう、「制約」。実は自由だ自由だと騒いでいる割に、本当に重要なのは、「適度な制約」ではないのだろうか?

 

たとえば上記で「遊ぶ道具」を与えれば、それはそれでしかできない「遊び」という制約条件になりうる。「資金の余裕」の場合、逆に言えば「お金でしか買えないもの」という制約が生まれていることになる。

 

現実で考えてみれば、たぶん「自由」というなの「数少ない制約」でしかないことがほとんど。場所という制約、限られた時間という制約。そもそも「人間」などというのは、トラブルに巻き込まれずに生きたとしても、高々100年程度の時間の制約の中で生きている生物。さらに、重力に縛られ、基本的には地上を這いずり回っている生物。

だが、この時間的制約があるがゆえに、ここまでに何かをしようと「やる気」が出たり。重力に縛られているからこそ、「空を飛びたい」と夢を実現する技術開発に邁進したりする。

 

そう、適度な制約と、それを乗り越える事を目標として掲げてきたからこそ、人はこれまで進化してきた。やりたいことがあり、それを実現してきた。

だからどんなことでもいい、これめんどくさいな…とか、これできないかな…といったこと、それこそが今の「あなたにおける制約」。それを打ち砕けないだろうか?乗り越えられないだろうか。それが乗り越えられた先にこそ、いまより大きな自由が待っている。

 

 

そう、自由を手に入れるために、身の回りの制約に目を向けようよ。