ゼロリスクの呪い

先日は、お金の教育のことを書いてみたのだけれど、これに深く関係するのはリスクの話だ。 前回も書いたけれど、今の日本ではお金の学習はなされていないし、より広くとらえれば、リスクに関する学習はたぶん人によっては、一生を通してどこでも学ぶ機会がない人もいるのではないだろうか。日本においては「覚える」勉強スタイルはいろいろとなされている。覚えるのだからすでに「覚えるもの」がある。そしてそうした、たとえば単語や構文を覚えることにより、それにのっとった「答え」も導き出せる。

 

しかし、現実の社会を見てみればお分かりの通り、すべて公式、ルールにのっとって判断されているかといえばそんなはずもなく。「例外のない規則はない」の言葉通り、世の中例外だらけといってもいい。となれば、「ここは例外扱いしません」「ここは例外として認めます」という判断はだれがどのように下すのか?そうした決断、判断のしかた、やりかたはどこで習うのか?

 

もちろん、家庭では「親の背中を見て」とか、会社や組織では「できる上司の背中を見て」ということもあって結構。しかしすでに社会は、「そうして、見て、育つまで」待ってくれなくなってきている。ということは、「学ぶ機会」が必要ではないのか?

 

以前にも書いたので詳細は端折るけれど、リスクとは「未来に起こるかもしれないなにか」だ。多くの場合、それが起きてもらうと不具合、不都合が生じることになりそうなこと。だからそれをなんとか避けたい、ぶつからないようにしたい。「そのために」どのような行動をとるのか、策を打つのか、決断して進めていく必要がある。やみくもに「こっちへ行こう」でうまくいっている場合はよいけれど、偶然はそうそう続きはしない。

 

裏を返せば、そんなことが絶対起きないような、いわゆる「ゼロリスク」を望むなら、そもそもそんなことに足を突っ込むこと自体が間違っているのだ。ゼロリスクとは、そういうことが絶対怒らない事。
でも現実に要望していることは、その美味しいところは今のままやり続けてほしい。でも絶対に不都合は起こしてほしくない…という矛盾。そんな都合のいい確約された未来などありえない。そもそもそういう「矛盾した要望を出していること」が認識されていない事こそが不幸であり、リスクを学んでいないことによる無駄な時間となっている。

 

まずリスクを、そしてそれに対する対応策を学びませんか?