自由という覚悟

ネットがこれだけ発展し、SNSが様々に整備され、あちこちで、記名で、もしくは匿名で、自分の思ったことを世間に向けて発言、発信できるようになった時代。その意味ではここ(Hatena Blog)ももちろんその一つ。だからこそこうして自由に意見を書き綴ることができる時代。

 

モノが自由に言えるという事ほど素晴らしいことはない。言論の自由バンザイ!。ただ違う言い方をすれば、そうした意見をきちんと表明しなければならない時代…ともいえる。

 

意見を表明する。これもより詳しくは複数ステップでできており、ある対象に対して興味を持ち、それに対して意見を持ち、その意見を表明できることが必要になる。

これ、かなり「これまでの日本人」にはハードルが高い人、いるように思うのだ。

 

まず興味を持つこと。なんにせよ興味すら持たない人が多すぎる。(その最たるものが政治だったりするわけで…まぁこれは語りだしたらキリがない…)

ある事に興味を持ったとして、それに最初から詳しいわけもなく、その興味を知らべ、学ぶ必要が出てくる。…となればすべてが納得できるわけもなく、部分的に納得いかないところ、賛成できるところ、反対したいところも出てくる。ならば三世部分はいいとして、そこに「ただ単に」反対しても意味はなく。それに建設的に反対するには、じゃあどんなところが落としどころになるのかを考える必要が出てくる。世間は数学的にできているはずもなく、「完全に周りが納得できる回答」は存在しえない。とするならそれをどこに持っていくのか、どこに決めればいいのか?そう、個人的意見であろうと決める必要が出てくる。

 

今までの日本なら、そんなことは決めずとも、偉い人、詳しい人、責任を持っている人が決めて進めてくれていた。けれどそれでは回らなくなった時代、物事が複雑に絡み合い、今までは末端であった人でも、意見を表明し、語らねばならない時代になった。

自由に、どんな意見を述べられるという自由。それを得たことで、逆に意見を「述べねばならなくなった」という不自由。

ものごとは、いいところだけ、おいしいところだけいただこう…というのは、やっぱ無理だよね。