見えていないふり

時々、見えているのに見えないふりをする人。分かっているのに分かっていないふりをする人。やっているのにやっていないふりをする人。

確かに、明らかに目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、四肢が不自由だったりすれば、そうなることもあるのかもしれない。けれどそうでない場合、いくら口ではそういったとしても、状況証拠で明らかにわかる事もある。逆に言えば、そういう疑われるような場面で、そういう行動になってしまったこと自体がミスだろう。

と、こういうことを表現した故事成語があるわけで、「李下に冠を正さず」というのはまさにこのこと。実際にそうしたかどうかはもちろん疑いの対象になるのだけれど、そもそもそのような状況に入ってしまった時点で言い訳はむなしく響くのみ。

 

もしもそんな状況においても本当にしていないというのであれば、当人の記憶と、事実の記録(たとえばビデオや音声データなど)のどちらを信じるのか?となると、明らかに「記憶」ではなく「記録」を重視するのが常識。そもそも記録があるけど記憶を重視するなら、記録の意味の半分は失われたも同然では?

 

だが昨今の日本でさえ、そもそも記録よりも記憶が通り、さらに、記録が記録として意味を成すかどうか、記録の改ざんが起きているかもしれないことを疑わねばならない…ということからして、二重三重にひどい状況が重なりつつある状況。無理が通れば…から、さらに、嘘が通れば真実が引っ込む状態で。

 

私も含めた今の大人たちは、そうした状況を、次世代を担う者たちがつぶさに見ているという事を意識できているのか?「そんなにずる賢くていいんだ、自分の利益、利己的にふるまえばいいんだ…」という未来を指し示している状況になっていることを意識できているだろうか?

 

景気のせいだけではないだろうけれど、過去から順送りに上がった結果、腐敗した上層部は一掃したい気分だ。でもそれを変える力を持っているのは、言わずと知れた国民であり、そういう人たちに選ばれたものがあらゆるところで「マツリゴト」をつかさどっているのだから。要するに天に唾する状況になっているという事か。いや、それでも、他国は見ているのですよ。

国も、大学も、ブラック企業も…。