やりきるために

仕事にせよ、プライベートにせよ、「こうなりたい!」とか「こんなものをつくりあげる!」といった目標を立てるのはとてもいいことだ。年明け一番とか、新しい学年になったらなどなど、こうした抱負を立てることをする人もいるだろう。

…のはずなのに、なぜ多くの人がそうした成果をあげられていないのか?もちろん私もその一人なのだけれど、そこにはこうした問題はないだろうか?

 

たとえば、「富士山に登りたい!」だとしよう。とすると、最後の頂上に上りついたイメージを成功のゴールとしてイメージすることはあるものの、「それだけ」で成功する人はいないのは当然のこと。考えるのは、どこから登るのか?どのくらいのスピードで登るのか?いつの時点でどの辺にいるとペース通りなのかなどなど、普通はこうしたことを想定する。そう、想定しているのだ。そして、いつの時点はここまで…という予定に対して、ちょっと進んでいるのならばOKだ。だが、遅れているなら、たとえば今夜の宿はどうするのか?帰りの列車は間に合うのか?食料は足りるのか?水は大丈夫かなどなど、様々なことが気にかかることになり、場合によっては、やはりここで中止、ということを判断する材料となる。

 

そう、その途中途中でどのあたりに、いつの時点で居ればいいのかを確認できるスケジュールなどが作られているという事。当たり前だが、そのスケジュールを作った時点で、「いや、このスピードじゃ無理でしょ」とか、「もう少し余裕を見ておこう」といったことも検討できる。

 

そうした、物事を進めていくときに、何かをやり遂げるためには、大きな目標「一つだけ」ではたぶんなかなか成功しない。それをどんどんと分解し、これから一年でやり遂げること、半年で到達すべきところ、一か月でやらなければいけない事、一週間後にできているべきところ、一日でやるべきところを設定していく。これも、もちろん人間だから、土日の休みや、若干のマージンや休みも含めて考えておくこと。これなくして、「できないできないぃ」といつまで言っていたとしてもできるわけもなく、やみくもに作業を進めていっても、バテてしまって継続できなかったりと、なかなか結果は出しにくい。

 

就学前の子供のころは、やれば数時間で結果が出るものがほとんど。しかし小学生になって以降、徐々に成果が出るまでに時間がかかることが増えてくる。でも、その時点で考え方を切り替えられる子供は良いものの、それが切り替えられないことが、落ちこぼれの一つの原因になっていないだろうか?徐々にものごとの進め方を切り替えていくこと、これは勉強の仕方につながる話だが、その進め方を学ぶ学習機会がどこにもないというのが悩ましい。いい大人に出会えるか否かだけでは、運任せではないですか。

こうした「勉強のやり方」を学ぶ事って、とーっても意味があると思うんですけどね。