寂しいことは事実だが

街の本屋さんが風前の灯火…という状況は、もう何年も前から言われていること。Amazonの出現した直後から、有識者の間では、こんな便利なものができてしまうと、ゆくゆくは本屋さんがすべてネット経由になるだろうと言われていた。まさにそれが現実の数字となって表れてきているに過ぎない状況だ。

 

最初に断っておくが、私は本、紙の本が大好きだ。雑誌も、本も、本屋へブラリとサッと手に取り、パラパラとめくって中身を確かめたり、図書館でじっくりと読みふけるのもこれはこれで楽しく。家に帰ってじっくりと読み込むのも、これはこれで素晴らしい時間になるのはよく知っている。

だが昨今、自分はどこで本を買うことが多いか?と問うと、やはりネットで買うことが多くなっている。その一つは、「在庫量が多い」のだ。本好きであればあるほど、読みたい本や雑誌がたくさんある。となると、それらが潤沢にそろっている本屋をめぐりたいというのは当然の欲求。しかし、特にマニアに向けたような本など、小さな書店にきちんと品ぞろえされていることは少なく、結局大きな書店へ出向かざるを得なくなったり。その大きな書店においてさえも、販売効率等々を考えると、そうそう売れない本を在庫として持っておくのはリスキーなこと。さらに店舗のどこかに置き続けることこそコストそのものなので、やはり売れる本にしたい。となれば、やはりマイナーな本や雑誌は在庫されにくい。そもそもそうなってしまうと、探すのに手間がかかったり、取り寄せに時間がかかったり。…なら最初から、倉庫と同様の本屋、ネット通販で購入するか、検索して見つかれば、そのまま買えるのだし、という思考が働くのは当然のこと。

さらに言えば、本好きであればあるほど、本を買いたいのだけれど、「重い」のだ。自分で購入して自宅に持ち帰るのは結構な体力仕事。それに比べて、ネット通販であるなら、自宅前まで送り届けてくれる。こんな便利なことはない。となれば、やはりネット通販で購入したくなるのは当然のこと。

 

もちろん、街から本屋が一軒もなくなるというのは、心情的には寂しいものはある。だが現実から考えれば、現代のニーズに合わなくなっていることは否めない。

 

昔、まだ電気仕掛けの冷蔵装置が普及していなかった頃の今から50年以上前の日本では、「冷蔵庫」というのは、町の氷屋さんから日々氷を購入して「冷蔵庫」と呼ぶ箱に入れ、その中を冷やしている時代があった。そののち、電気仕掛けの冷媒を用いた冷蔵庫が普及することにより、一気に氷屋さんの需要は縮小する。これは、映画「三丁目の夕日」の中にも見られるワンシーンだ。

別に氷屋に限らず、その時代に応じて、その商売が大きく拡大したり、逆に縮小せざるを得なくなったりするのは当然のこと。上記の氷屋が、今では完全に消滅したのか?というと、夏になればカキ氷需要に対しての氷の需要はあり続け、たぶん全盛期に比べると非常に細々ではあるけれど、生き残り続けている氷屋があるのだろう。需要に対して適切な数の企業が生き残っている状況。

 

たぶん、本屋もそれと同様に、需要に応じた規模で生き残らざるを得ないはず。もしくは既存の「本を売る本屋」以外の機能を自ら開拓して、新たな機能、サービスを展開する、次世代の本屋とならなければ、当然ながら努力なしには生き残れないという事に他ならない。努力せず、今までと同じで生き残らせることほど高コストなことはない。それを社会的コストとして生き残らせ続けるほどに、今の日本社会に体力は残っていないのではないだろうか?

 

だから、あらゆる昔ながらの商売は、心情的にはなくなってもらっては困る。…のだが、努力せずに生き残り続けてもらっても困るのだ。それぞれに、自らの良さを伸ばして、新しい時代に生き続けていく、逆にユーザーは、まだ存続し続けてほしいと使い続けることで、その商売、サービスを生かしていかなければならないという事。

ただ、矛盾するようだが、完全になくなってしまうのは危険でもある。一度失くしてしまったものは再びシステムとして作り上げるには想像を絶する努力と労力を必要とする。またそのシステムが正しく生き続けるには、それなりの流通規模と、継続性があってこそなのだ…が、かなり難しくなりつつはあるのかも。

 

最悪なのは、使いもしないのに、「やっぱりさみしいねぇ」などと心情だけを吐露する人々が、その、今では負債になりつつあるシステムを存続させ続けること。自らそれを背負い込む気概がないのなら、使うつもりがないのなら…(ry.