自由、リーズナブルな自由

自由。心地よい響きだけれど、本当に何の制限もない自由というのは、実はとっても生きていくのがつらく、大変なのではないだろうか?それは大自然と全く同じことであり、ルールがないのだから、何が起きるのかわからない。であるため、どんなことが起こったとしても不思議ではないのだから、それらすべてに対応できるだけの準備が必要であり、体力が必要であり。それらを備えたものだけが生き残ることができる。そんな自由が結構大変ではないだろうか?

 

であるため、今の人間は、社会生活を営む日本に生息している人々は、あるきまった制限の中、ルールの中で生きている。制約が付いた中での自由を謳歌しているに過ぎない。いわば「制限付きの自由」だ。
「制限付き」と音の響きを聞けば、それはそれで「不自由さ」を想像してしまいがちなのだけれど、少し考えればわかる事。基本的に突然他人に襲われたりしない、暴力を振るわれたりしない、モノを奪われたりしない、危害を加えられたりしない…。そうしたルールで構築された社会の下で生活しているからこそ、ある意味安全に、安心して、社会生活を営むことができる。これは「制限」ではあるのだけれど、「リーズナブルな制限」として、その枠の中での自由を謳歌することができる。とてもコストパフォーマンスがいい自由だととらえてもいいのではないだろうか?

 

だが、「自由なのだから、何をしてもいい」とか「俺の好きなようにできる」という事を考える者が少なからず出てくると、こうした状況は一気に崩壊する。「真の完全な自由」を求めるものによって、「リーズナブルな自由」が危機にさらされる。これは由々しき事態でもある。だから簡単にそうならないための装置(ex. 警察)なども準備されているということ。

 

本当に求めているのはどちらなのか?すべての自由を手に入れるけれど、ずっと怯え続け、個々に対策を打ち続けなければならない「完全な自由」が欲しいのか。それとも、「他人を勝手に傷つけ」たり、「物を壊し」たりはできないけれど、「リーズナブルな自由」でありたいのか。考えればすぐにわかるはずの事なのだけれど。