正義 から

子供のころは、特撮などのテレビ番組も盛んで、スーパーヒーローにあこがれることもある。自分があのヒーローになり切り、優れた能力で人々を幸せにする「正義の味方」になれるわけだ。

 

だが、「正義」とは何なのか。自分としての正義はもちろんある法則やルールに則って定義づけなどができ、「そこから外れたもの」が「悪」になるわけだ。だがそれでは「自分」は絶対的正義なのか?本当に自分に間違いはないのか?「自分が正しければ誰かに害を及ぼすこと」も含めて「正義」なのか?

こう考えだした途端に、正義の位置づけが危うくなる。当たり前ではあるけれど、そうした事を教えてくれる子供向け番組なども多数ある。ガンダムなど、ある意味その典型だろう。戦いとは、戦争とは、「正義と悪」との闘いなどではなく、実は「正義と正義」との闘いでしかないというのはどんなストーリー、映画、小説等々においても当然のこと。誰かの視線での「正義」は、当然ながらその反対の視線がどこかに存在することがあり得るという事。

 

という理解が始まったとたん、「じゃあ考えたって無駄じゃないか」と傍若無人にふるまう人と、「であるからこそ、慎重に行こう」と周りの人に気遣いながら物事を進める人と。あまりにきれいに二つに分かれるのは見ていて面白い。

その中でも、「考えられない人」ほど傍若無人になる気がして、自分主義、利己主義でしょうがないじゃないかとふるまっているように見える。気づかいすることすら考えられない、見られない、観察できない、考えられない、が原因の一つだと思われる。

 

話は変わるが、東大の入試をAIは突破できるのか?ということで「東ロボくん」というAIの開発がすすめられたことがある。すでに書籍にもなっているのでご覧になった方がいるかと思う。東大はまだ難しそうなのだが、とは言えすでにかなりの数の大学をAIは突破できる状況になってきているらしい。
その研究を通して反対に浮き上がってきたのが、読んで理解できない人、論理的に読み取れない、考えられない人々の存在だ。少なくとも現状のAIは、パターンと確率で答えを出している。がそれの裏返しとして、「考える」というところが苦手らしい。論理的思考を駆使するという部分がうまく解析できていないというところとも言えるだろう。

 

人がこれからも、少なくともAIに仕事を奪われないようにして価値を保って生き続けていくには、論理思考、考えることからは逃げられないだろう。まぁそれをもってなのか、小学校あたりから「プログラミング学習」などというものが始まるらしいのだが。そもそも順序立てて考える、論理として考えるという癖、考え方を都度都度イメージし続けなければ、その場限りではうまくいかないのではないだろうか?

いや、難しいことではないはず。全ての「理屈」を想像してみれば?という事なのだから。