正気を取り戻すために

信教の自由があるゆえに、様々な宗教が成立していること自体に、特段不満はない。だが、時に「カルト集団」的な、極端な考え方、思想がうまれ、それらに洗脳された集団がおかしな行動を起こすと、社会はとんでもない混乱に巻き込まれることになる。社会を守るために、それら集団は注意深く監視され、扱われなければならないと考える人もいる。

だが、この考え方の大前提として、「大多数の私たちはまともだ」という立場が、暗黙の了解として成り立っている必要がある。たいていは、これ自体を疑ってしまっては考えの依って立つ部分が揺らぐことになるので、その前提は崩さないのが普通だ。だが、ほんとうに「常に」それでよいのだろうか?自分たち自身は大丈夫なのだろうか?カルト集団の中にいて、そんな自分に疑問を持つ事自体が難しいような、そんな状況に陥っている自分たちはいないだろうか?

 

たとえば今の日本の首都圏の通勤状況。余程近い場所で生活できている人を除いて、たいていは職場まで、ドアツードアで1時間から1時間半ほどかかる人が大半ではないだろうか?となれば、1日24時間の内、2時間から3時間が「通勤」で費やされているということになる。ここで消費されるエネルギーや労力は何なのだろうか?

窮屈な列車内に押し込まれ、みんながスマホを眺めている。この時間たるや1日何万時間に相当するだろうか?この非効率さは何なのだろうか?会社に着いた途端に「フゥー、疲れた」から始まる職場はただしいのだろうか?

 

さらに言えば、昨今の首都圏は「列車が遅れるのが日常茶飯事」になりつつある。もうかつての日本のように、「列車は遅れない国」ではない。かつての古き良き時代を懐かしむのは良いのだが、現状を見つめよう。

多数の路線の乗り入れができて、「通常運航できる前提」ならば、乗り換えが減る分、大変便利になった。その反面、どこで事故が起こっても、かならずあちこちに影響が伝播し、全体がいつも調整状態、遅れがちな状況になりつつあるのが昨今の鉄道事情だろう。これが当時期待していた未来像だったのか?

 

この「日本という集団」の異常さは、中にいては「それが当たり前」となって感知できていないことが少なくないのではないか? 時に海外赴任になったりすると、日本の異常な状況を俯瞰的に見渡すことができるようになるとも聞く。まさにそうして「日本国内のおかしさ」をきちんと意識し、声を上げていかなければならない状況ではないんだろうか?政治も、経済もなにもかも。

(もちろん、中にいるからこそ、当たり前すぎて幸せな状況を享受できていない部分もあるだろう。犯罪などに対する安全度はどうやら半端なく高レベルな社会だそうだ。)

 

すでに少子化が始まり、日本の人口はピークを越えて減少傾向が顕著になりつつある。あくまで私の予想だが、たぶん人口が減ったところで、上記のような通勤事情はそうそう軽減はされないだろう。結果減って行く分は「地方」での減少となり、それ以外はやはり首都圏にわらわらと集まることで、人口減少と同じ勢いでの通勤事情改善にはまずつながらないと想像する。…となれば、今から30年後、50年後でさえ、いまより「少し」ましな通勤事情でいいのだろうか?多くの人がある程度の共通イメージとしてなっとくでき」「日本の未来の姿」がつくれない、そういう風にリードできる政治家が現れない事が、悲劇なのかなぁ。