工夫をすると(働き方改革)

今、日本社会は、高効率、高生産性を唱えている。(とはいえ、今に始まったことではないのだけれど)

 

だが、じゃぁとばかりに、仕事の効率を上げて、自分の担当分を早く終わったとしよう。例えば3時間分の仕事を2時間であげたと考えてほしい。この際の企業側の論理はどうなるのか?

まず間違いなく、実質として、2時間分の給料しか払わない。というところがほとんどではないだろうか?そう。入口は「高効率化」とか言っておきながら、その実、中身を見ずに「時間でしか労働力を見ていません」という事の典型ではないか!

まさに言動不一致!。効率など見ていない!という事ではないだろうか?

 

こんな状況下では、工夫した人、努力した人をバカにしているのもいいところ。もし、半日で終えても早く帰れないのなら、拘束されている時間分をフルに使って作業するほうが、自分的には楽だったりする場合もあるだろう。

 

違う側面から見れば、その「成果」の価値を上司がきちんと見極められない、見極めようとしていないからこそ、結果として「時間に対しての給与」を出さざるを得ない事実がある。もうこれは連綿と何十年も日本にしみついてきた「給与算定の方法」であり、当然ながらいままでそれ以外の方法でやってきた上司も見たことがない人がほとんど。であるからこそ、価値などをどうやって見積もればいいのか、自分が価値を見誤ったら??と思うと、いきなりそれに切り替えられるわけがない。

 

過去何年にもわたり、時短だ何だといろいろと日本の働き方に関して提言が出て来てはいたけれど、けっきょくのところこの「価値の算定」というところにつながラざるを得ない。そしてその価値はというと、今すぐ価値になるものもあれば、時代を経て価値に変化するものもある。そんな不確実なことを「今月の給料に正確に反映させること」こそ幻想としか言いようがない。だから、価値で測るためには、事前に測る物差しを決めざるを得ず。そしてその物差しが「決められない」のが日本の現状だろう。

 

最近悲観的な未来しか見えてこないのだが…。