生産性向上の考え方

生産性向上が叫ばれて久しいけれど、正直なところ、今の日本におけるこの議論には、大きな偏りを感じている。

 

様々な考え方はあるようだが、ここでは誤解を恐れずに簡略化し、

生産性 = 利益/投入資源

と考えると仮定してみる。

 

こう考えると、「生産性」を上げるには二つの方法があることがわかる。それは「分子」である利益を増大させることと、もうひとつが「分母」である投入資源を小さくすること。

そして、今の日本で言われている多くが、この後者の「投入資源を小さくする」ことによって生産性を上げること。具体的には、資源としての「時間」、仕事時間を減らして(今までよりもより短い時間で)同じ成果を生み出して、利益を上げることが求められている。

であるからこそ、仕事時間を減らせという圧力として、プレミアムフライデーだとか、休暇を増やそう…といった話が出てくることになるのだが、その大前提、「そうして減らした時間でも、少なくとも今まで通りのアウトプット、成果が生み出せる事」が担保されてこその話のはず。だが、通常、作業時間が減れば、アウトプットを維持するのはむつかしい。にもかかわらず、「時間を減らせ」「残業減らせ」だけを語られているのが、強烈な違和感なのだ。言わば「作業自身の効率は、個別にあげてね」として個人に押し付けられているところが胡散臭いところ。実はそここそが、会社として、社会として、全体で一気に変わらないと、効率化できていないところではないのか?そこを個人に押し付けている時点で、そもそもこの活動自身が形骸化しているのではないだろうか?

 

改めてとるべき別の戦略の方法が、前者に書かれている「分子」にある利益を増大させる方法。とはいえ、いきなり利益を増やせと言われても無理な話。だから、分子として考えるべきは「付加価値」を増大させる方法だと読み替えてもいい。

そうみてみると、いまだに「そんな無駄なこと、まだうちでやっているんですか?」といったことを、平気でやり続けている会社や組織がある。もちろん、言い分もわからなくはない。「うちの会社の技術は、ここが命。だからここを続けていくしかない」との意見で、そこをやり続けているのだろう。だが、その発想自体がもしかすると古い、陳腐化している可能性がある。だからこそ、自分たちで「今の自分たちを否定してでも、進めていかねばならない、自己改革が求められている」のだ。
…というのはたやすい。それができないからこそ、イノベーションのジレンマと呼ばれる現象が多発する。そうした、一昔前では考えられなかった方法で、機器で、新たな技術が代替されようとし始めている。インターネットもそうだし、AIもそう。3Dプリンタブロックチェーン技術も、などなど、今まで自分たちとは関係ないと思っていた技術が、どんどんと自分たちを押しのけ始めている。

 

こういったことに敏感なのは、技術好きのエンジニアだ。彼らの多くは、新しい技術が好きで、それを自ら動かしてみたくてうずうずしている人が少なからず存在する。
だが逆に、そんな技術にうずうずしている人は、できる人でもあり、「今の社内の仕事」でめいっぱい効率的に働いてもらう(余裕の時間などなく、新しい技術を取り込む時間がない)ために、結果的に、使い古されて次に続かなくなっている。

そう、究極的に効率化する…ということは、次に続かない、次への変化、進歩すら取りやめることにもなりかねないということ。

 

だから、効率化というのは「進歩のための時間」につながる、一般的に呼ばれる余裕時間(本当は余裕じゃないんだけど)まで奪い取ってしまっては、それは自らの首を絞めていることに他ならないという事。なのに、けっこう多くの組織は、「今の事業で、めいっぱい効率化」を目指すことで、結果的に自らの生命線を断っていることにつながっていないか。

 

ただし、それはその企業規模、財務状況によるため、一概に、はい〇%とも言えず、スキルにも依存するだろうし、技術分野にも依存する。であるために、努力を怠ったとたんに陳腐化する、後手に回るわけなのだが。このままでは危なくないですか?すでに、この国の経済力を冷静に見た方が良くないですか?