便利さの代償

生きづらい世の中になって、社会からドロップアウトした方を特集するような番組や、記事が組まれることがある。厳格な仕事、複雑な人間関係、そんな状況を保つための複雑なコミュニケーション力の向上が求められても、苦手な人は苦手だ。それに耐えられずにリタイアしたり、仕事を転々とする方が、今の世の中には少なからず存在する。

 

でもたぶん、「そうできる」人は、まずその「できない事実」が感覚的に受け入れられないだろう。「話せばいいじゃん」「一言聞けばいいんだよ」…が、できないのだ。いろいろ気遣いすぎたり、自分に自信がなかったり。

今の時代、少なくとも日本において、「いろいろな方法でコミュニケーションができる方法が増えた」事によって、「コミュニケーションがとりづらい」状況が増えていないだろうか。

 

コミュニケーションの「典型的」なやり方は、声をかけること。もちろん、日々声をかけるし、あいさつもする。だがそれはそれで苦手だという人がいるはずだ。

そんな中、たぶん発明された直後の「電話」でも、コミュニケーションが苦手な人が出たのではないだろうか?これはその当時にかぎったわけではなく、最近でもたまにあること。新人が職場で「電話」をとれないケース。そう、怖いのだ。誰からかかってくるのかわからない、どう対処していいのかわからない。だから取れない、出られない。

「相手が誰だかわからない時点で、恐怖です。スマホやケータイならわかるのに…」

 

メールというシステムが普及しだした直後もそうだったはずだ。

「メール?何それ?私はキーボードなんて打てないし。電話してきてよ」

いまだにそういう人は少なからずいる。だが逆に、生の声で話すのは苦手な人は、このメールのほうがやりやすい、このコミュニケーション手法だと、とりやすいという人だっているのだ。

 

昨今の日本ではLINEももはや一つのデファクトとしてのコミュニケーション手段の地位を確保しているだろう。だがこれとて、

「どうやって相手に返せばいいの?」「スタンプとかわからないし…」「課金されるんじゃないの?怖い!」

と使えない人もいる。こんな人の中にも

「メールならわかるのに…」

という人もいたり。

 

そう、人によって、その人の使いやすい「コミュニケーション方法」が、それぞれに分断されたから、方法がいろいろ確立されたことによって、個々人が使いやすい手段が分散、分断されたことをもって、コミュニケーションが「取りづらく」見えている状況はないだろうか?

 

昔は、声をかける「しか」なかった。だから声をかけるのが苦手な人すべてが「コミュニケーションが苦手な人」になっていたのだろうけれど、今は、全ての手法が苦手な人がそれにあたるはずであり、逆に言えば「何か別のコミュニケーション方法なら…」という人が多くいるはず。

もちろん、いつの場合においても、すべての連絡方法、コミュニケーション手段を用意することもできるはずだが、それはコストと時間がかかる。だから、「多くのみんながコミュニケーションをとりやすい」やりかた、コストや時間をかけずにできるやり方を、最初に打ち合わせ、合意を得る…という、方法が増えたがゆえに、面倒さが増えたことがあだになっている時代なのではないだろうか?

 

そして、種類が増えたことにより、覚えることも増え、取り残される人、経済事情によっては使えない人などがどんどんと別れて複雑になっていく。今や電話をかける方法が、特殊な能力だと思う人はいないだろう。たぶん、数十年後、には、他のコミュニケーションほうほう、チャットやSNSを支えるのが普通の世界になるのかもしれない。

国が分かれ、言語が分かれたことによって、人々がお互いにコミュニケーションしにくくなったバベルの塔が、技術によって、便利さによって、より高いバベルの塔になっていくような。