ゴールと言うスタート

オリンピックや〇〇世界選手権。様々な競技で新しい記録が出るし、勝ち負けがはっきりする。

「目標は、決勝進出!」

とか、最初は控えめなことを言うアスリートもいるけれど、やがてそれが

「目標は、入賞!」

になり、

「メダル」

になり、

「金メダル」

を目指す。

 

そして、本当に金メダルを手にしたら…。ここから先が分かれてしまう。

 

ひとつは、燃え尽きてしまって、引退してしまったり、その後に記録が出なくなってしまうパターン。もう一つはというと、その後も絶えず研鑽し、次の試合でも、またその次の大会でも、いわゆる年齢や体力にあらがって記録を出したり伸ばし続ける者。

 

前者の人にとって、たぶん、その目指すものであったゴールが、「本当の最終ゴール」になってしまっていたのだろう。その先は、完全な壁になってしまい、向こう側がないところまで来てしまって、ある種の満足感だけになってしまったのではないだろうか。

だが後者のさらに伸びる人は、そこは「ゴール」ではあるが、壁ではなかった。だから、「今回のゴールの向こう」が見えていたという事。なので、そこに向かって再び歩みだす、努力すべき先が見つかったということだ。ひとつの山の頂上だろうけれど、そこに登り着いたからこそ、次の頂きが見えたのだろう。

 

この「ゴール設定」。とは言え目先のゴールを設定することがまず重要で、どこまで来たら「成果として認められる」かが見えなければ、すべては徒労感として消費されかねない。まずこの「今回のゴール」を決めることが重要だ。

だが、多くがこの「今回のゴール」だけでは終わらない。そこまで来たら、その高みに立つと、実は次の高みが見えてくる。そうした「次の目標」へのスタートラインが、「新たな今回のゴール」になるはずだ。それは、今到達した「今回のゴール」に来たからこそ見えた次の征服すべき到達点。

 

一つの山を征服しただけでも、それはそれで素晴らしい。だが、オリンピックの選手ならまだしも、我々市井の民においては、一つの山、一つの成果などたかが知れている。だから、一つを超えたらその次を、それを超えたらさらに次をいかに設定するか。

学習塾で、そうした目標設定を細かくすることで、成果を上げているところを見たことがある。社会人においても、そうしたやり方はありじゃないだろうか。

たとえば、英語。すでにかなりの企業において、TOEICはビジネスマンとして必須科目になり始めている。早い人では、今なら出来る人は学生時代から研鑽に励むのだろうけれど、社会人になったら、レベルによるが、まずは400点や500点あたりから励んではいかがだろう。

そして少なくとも半年に一度は受験してみる。今の自分の位置を確かめるという事。たとえば、4月と10月といったことで自分にルールを作ってみるのも一つだ。そこで、最初は400、次は450、その次は500を…と目指すことで、自分の成長の階段を自分で作るという事。

「他人に言われた階段を上る」のは結構つらいもの。だから他人に言われる前に、自分で小さくステップを切って自分の階段を登り始めればいいだけの話。

 

どうですか。そろそろ始めてみませんか。

いきなり600点を目指さなくてもいいのだから。