一つの姿としての

昨今、国政から学級会、地方の自治会まで、いろんな方のいろんな意見がバラバラと出てきて、本当に様々なことを前進させる、前に進めることがむつかしい時代になったと感じている人もいるのではないだろうか?これをもって、もっといい進め方はないのか?と模索するのも一つではあるけれど、ある意味、これが「民主主義の一つの形」ではないだろうか。

 

民主主義とは、それ以外の違った意見があったとしても、徹底的に議論し、お互いにできる限りの納得をもって前に進めていく。それが民主主義的な物事の運営のしかた。でも今まではというと、もちろん、そうした理想を追い求めていたところもあるのだけれど、結果的に声の大きいもの、力の強いものになびき、弱者や少数者の意見がないがしろにされながら進んできたところがあるのではないか?それの典型例が「多数決」。徹底的に議論したうえで結果的に落ちがつかず、最後の最後に多数決、というのは、完全ではないにせよ前に進めるための一つの策だ。だが、議論もそこそこに、意見の聴取もそこそこに、では多数決で…と早々に決めるのは、これは単に数の論理、多数派のみが勝つというやり方であり、そもそもの民主主義的議論が(全くとは言わないまでも)不十分にしかなされていない状況での結論のつけ方だ。

 

たぶん今までのそうした横暴といった状況のある意味反動もあって、さらに、そうした今までなら声を上げにくかった少数意見の声を声高に上げる手法が、ネットやスマホの普及によって、少数者の手に「武器」を与えられた形となっている現在。このことで、単なる数の論理、多いものだけが勝つ、というところに、若干ではあるのだろうけれども歯止めが効き始めている、それが上述した「なかなか様々な物事が決められない、前に進まない現状」なのではないのだろうか。

 

ただ、多くの場合、議論もそこそこにある意味矯正に近い形で結論づけて来た今までのやり方、今までの決める/決まる時間感覚からすると、いつまでたっても決まらない、いつまでたっても決められない…という感覚にも陥るだろう。だがそれは、あくまで「今までの感覚との対比」でしかない。それは「今までが正しかった」という前提に立っての判断でしかない。が、はたして「今までは正しかった」のだろうか?

 

もしかすると、今現在、決めにくい現在、決まりにくい社会こそが、本来の求めていたイデオロギーの姿の一つの姿ではないのか?
ただそれにしても、じゃあいつまでも決めずにいてもよいものか?というと、たぶんそういうわけにはいかないという現実もある。決めにくい、決まりにくい世の中で、はたして「どうやって決めていくか」「どうやって前に進めていくか」…。覚悟をもって、それぞれがそれぞれの違いに耳を傾け、真摯に歩み寄る姿勢をどのように作っていくのか。違いがないのはおかしい。違いがあるのが大前提。だが多分そこには全てを一瞬にまとめる魔法の杖はたぶんないのだが。