使い方を求められている世界

全てが安くなり、さらに多くのものが見かけ上無料になりはじめている現在がある。デフレの日本で、消費者サイドは防衛の意味で、より安く、そして良い情報、データを手にしたいとあがき続ける。その結果としての弊害があちこちで出始めている。

 

一つは、音楽。少なくとも以前ほどの勢いはなく、瀕死に近い状況。日本ではまだCDが多少は売れているものの、音楽産業はストリーミングに変わり、昔のような儲け方とはビジネスモデルが変わりつつある。そしてそれはたぶん、まだ確固としたモデルとして確立されていなさそうだ。一部のアーティストはライブに活路を見出しているけれど、それに切り替えられていないものも。

であるがゆえに、消費サイドが「より安く」に流れていくと、場合によってはそうしたクリエイター(ミュージシャン、作家、アーティスト等々)が窮地に陥ることがある。

もちろん、彼らサイドの努力も当然必要なわけなので、彼らだけのカタを持つつもりはない。が、彼らとてそう簡単には変われない。いかにして彼らに報いているのか?本当に素晴らしい者に、払いたい対象にお金を届けるか。「今お金がないから、無料アプリで何とかしのぐ」だけで、本当にこれからもその音楽を聴き続けられるのだろうか?

音楽、映像系はそれでも、何とか次の稼ぎ方、ビジネスサイドがビジネスパターン、業界が生き残るパターンを模索し続けている。

 

別のドメインの方が社会的影響が大きいかもしれない。それはジャーナリズム。以前なら新聞社やテレビ局、雑誌社などが金をかけて取材に力を入れてきたところもあるはずなのだけれど、そのどれもがネットメディアのあおりを食らって、予算の縮小化をはかり、結果としてジャーナリズムとしての力を大きく下げ始めている。結果、ピントのぼけたニュースや、根拠の薄い情報をもとにしたニュース。最悪は「大本営発表」をそのまま垂れ流すという、ジャーナリズムの批判精神そのものを売り飛ばしたかのような情報がネットに流れ出る。
ある日を境に、パッツリと中身が変わるのなら、まだ気づく者も出やすいのだけれど、少しずつ、ジワリと変わりつつある変化は、なかなか認知されにくく、みんな今までのつもりで読み進めていると、ふと気が付いた時には、すべてが置き換えらえている、批判すべきタイミングを逸している…ということは、たぶん早晩起きる可能性が高い。

だからといって、アーティスト同様、そのジャーナリズムを金で保護する…というのも少しお門違いの気はする。

 

とはいえ、いま情報を消費する側に、黙って突き付けられている危機はこれではないのか?あなたがお金の使い方を間違えると、社会構造的にとんでもない事が起きる可能性がある。いや、誰か一人だけの責務というより、個々がほんの少しだけ意識しておくこと。お金の使い方を間違えるな、とは言わないが、少し考えていくこと、意識しておくこと。安きにのみ流れていると、とんでもないことが起きる可能性があるのではないか、と。