栄枯盛衰はあれど

そもそも、活版印刷ができる以前は物語の継承は口伝が中心だったわけで。書き写していたところはあれど、莫大な時間と費用が掛かっていた時代があった。それが活版印刷の発展、印刷技術の革新によって、当初は重要な、貴重な情報のみが書籍化されていたところが、次第に娯楽をはじめくだらない本、雑誌が大量に出回り始めたわけだ。

 

ラジオというリアルタイムメディアが出てきた時も、たぶん、最初は貴重な電波資産を通じて、重要な情報、大切な情報のみが伝えられていただろう。そのうち娯楽もそこに乗っかり始める。

テレビが出始めたころ言われていたらしい事は、そんな低俗な媒体…という蔑みだったと聞いたことがある。あぁ、その前に映画というのも媒体として存在していたのだが。映画よりも低俗な位置づけでテレビが出始めたという事か。
しかし、テレビの、映像のインパクトは、ラジオの音声インパクトよりもやはり強烈であり、映画のようにプリントして全国に配給するタイムラグに比して、即時放送で時差なく伝えられる意味は、相当に強烈だっただろう。

 

だがそのテレビでさえもしのぎ始めたのがネットの社会。テレビの場合は、伝えるための設備の巨大化、高額化、専門化が進む。テレビは電波という限られた資源を使うがために免許化していたりもするわけだけれど、それらを飛び越えたのが、ネットを通じての、さらにはテクノロジーの進化による、機器の簡便化による誰でも配信。これも一朝一夕にここにたどり着いたわけではなく、回線が細いところを太くし、配信ソフトの高機能化、フォーマットの高精細化、CPUの高機能化があいまって今がある。

 

と、こうしてみてみると当然ながら、前のメディアの欠点、不便な点を克服し、より安い、より刺激的なメディアが台頭してきたわけだけれど、その中のいくつもが、今も残り続けているという事実。本、ラジオ、テレビ、要するに、文字と、静止画、音と、動画はフォーマットこそ変わってきたけれど、でもなくならない。それをどのように伝えるか、どのように蓄えるか、どのように再生するのかがカギとなるわけだ。

逆に言えば、そうした文字、静止画、音、動画という「情報を作る仕事」は永遠になくならない。それをもってして、人々が欲しい情報を作り続けることこそがなくならない仕事ではないのか?フォーマットに規定されることなく、どの情報を作りたいのか、作るのか?それが、AIに台頭される時代に、人に求められている創造の世界ではないのか。古い媒体だからもう要らない、ではないでしょ。今その媒体に求められている役目が何かをどれほど汲み取れているのか?それに向けてそのメディアが変われるのかが試されている事実。変われなければ、たぶん…。