ある効率化の行き先

おにぎりやサンドイッチをかじりながら、事務作業をすること。実際にはあり得るだろう。最後の追い込み。時間ギリギリに変更を依頼されたりすると、昼食をとる時間すら削りながら、何とかやり切った…という経験者もいるだろう。

とは言え、それはたぶん、まだ「日常」ではなく、緊急事態や急ぎの際の対処に限定されているのではないだろうか。

 

でも、ここまで効率化、時間の節約が叫ばれているとするなら、それが「日常」になる可能性だってゼロではない。事実「10秒チャージ」なんていうキャッチコピーで売り出されている朝食代替食品もすでに存在している。

となれば、自宅はまさに「寝るだけ」のスペースになり切り、起きて身支度を整えたら、最寄りの駅まで歩きながら「エネルギー」をチャージするという、ながら朝食、いや、朝食だけに限らず、昼食、夕食すら考えられる。

 

「そんな世界は嫌だな…」と思っていたとしても、そうしなければ時間が足りない人にとっては、通勤途中で朝食をとるのは当たり前になる可能性は低くない。実際、車で通勤する社会や地域においては、信号待ちで車内でモグモグ…はもうある話でしょ。となれば、通勤電車で今は「食べている人」がマイノリティだとしても、それがいずれマジョリティに変化する可能性は否めないし、もしそんな世界が来るならば、目立たないような食事ができるような製品開発も進む可能性がなくはない。

だたそれを望むのか望まないのか?

 

他方で、上記で描いているのは「食事」という言葉で想像されているものの、生存、活動のためのエネルギー補給に成り下がっているという事実。しかし実際「食事」というものが持つ意味は、エネルギー摂取という意味ももちろんあるけれど、「誰かと食べる」だとか、「食べるという事を楽しむ」というところに意味がある場合ももちろんあるわけだ。もっと突き詰めれば、ランチミーティングや(最近は減っているであろう)接待などは、まさに食べる「事」自体に意味があるのではなく、食べる「場」に意味があるという事。これらをすべて「食事」と切って捨てていいのか?

これは当然「食事」という事象においてばかりではなく、「無駄時間」とひとくくりでとらえて、それらをいかに効率化するか、などなどという大変乱暴な議論の危うさと通じるところを感じたりもする。

 

きちんと考え、きちんと議論し、納得できる解を導くというプロセス。そもそも、そのプロセスの進め方自体を知らなければ、翻弄されるのみ。