見て覚えろ、の攻防

子弟制度で育てるような仕事とか、先輩について仕事を覚えるといった教育の仕組みを持っているところでよくとられる手法(?)が、「おい、仕事はしっかり見て、体で覚えろ!」ではないだろうか。

その先輩がどうやっているのかを見て、真似して自分でやってみて、うまくいかなければ何がうまくいかないのかを考えて、体で覚える。時には、「違う!そうじゃねぇんだ!」と小突かれながら、怒られながら、なんとかやり切る。そうして3年、5年で徐々に一人前になっていって、やがてその成長した彼に後輩が付いたときに、彼が言うのだ。「いいか、仕事は見て、体で覚えろ」。

でも知りたいほうは往々にしてこう聞きたくなる。「どうすればいいのですか?やり方を教えてください」。でも先輩は言う。「バカ、見て覚えるんだ」

 

昔のように、時間をかけて後輩を育てられる、継承できる環境があるのであれば、このやり方も、もちろん一つの方法。だが、昨今は、そもそも後輩を十分に育てる時間も無くなりつつある。さらに言えば、そうして時間をかけて育てたとしても、その育てた者が継いでくれるかどうかは、大きな賭けになってしまっている。こんな中、時間をかけてまで育てられるのか?それも育つ可能性が低い中で…。

 

であるからこそ、確実に育てられるようにしなければならなくなってきている。見て覚えろ…なんていう形で、習う方が納得しにくいやり方がでは通用しない世界がやってきている。

となれば、どうすればうまくいくのか?どうやっていたのかを、言語化できる必要性が増しているのではないか。そう「言語化」だ。

 

言葉に置き換えれば、それだけでは完全ではないにせよ、それをなぞることは劇的にやりやすくなる。そしてそれに大きく寄与したのが「印刷技術」だろう。印刷技術が発達したからこそ、我々は、本という形で、先人の術を、技術を身に着けて、易々と新たな知識を身に着けていくことができる世界にいる。

音楽の世界の言語化は、音符の発明だろう。昔は聞いて、見て、しか分からなかった、伝えられなかったものが、五線譜、音符という記号を用いることによって、これまた完全ではないのだけれど、同じ曲の演奏をほぼ同じようにできるようになった。

だが、本であれ、楽譜であれ、それさえあれば、それだけで、先人と「全く同じように」その中身を再現できるわけではない。印刷された文字や音符には、感情がなかなか乗っていない。なので同じ本を読んだとしても、同じ楽譜を演奏したとしても、それを読むもの、演奏するもののちょっとした心の位置、タイミングの強弱によって、それは違うものになってくる。いまはまだ、それを個性と呼んだりもするけれど、もしかすると将来のいつかは、本や楽譜に相当するものに、感情をも封入できる技術が出てくるかもしれない。だからそうなる日まで、「その部分を補完する」のが、見て、やってみて、身体で覚える部分では。

 

そう、自分たちで記録に残すやり方がわかっていなければ、全てを受取手にゆだねるしかない。だからこそ「見て覚えろ」だの「身体で覚えろ」だの言うのだけれど、それは、当人自身が覚えるべき何かを言語化できていないからこその助言でしかない。勘所がわかってさえいれば、それを言葉で伝えればいいだけだ。言語化できるところをしていない事こそが、その分野の怠慢であり、下手をすると衰退の引き金になりかねない。

 

単なる素人の直観の域を超えないけれど、今のAIのディープラーニングも、そこが突破口になるような気がしている。どうしてそう考えるようにAIが育ったのかを言語化できなければ、ロジックを明確化できなければ、使い熟す道具にはなり得ないのではないか。

何が勘所なのか、たぶんそれを「学んだ」AIと「学ぶ前」のAIとで比較することにより、差分をいかに言語化できるのか?きっと人間が人間自身を知る大きなヒントがそこにある。