レベルフィット

知りたいことがある。でも自分のレベルがそれに追いついていない時。その説明会に出ても、自分が知りたい事を知りたいレベルで知ることはむつかしい。自分のレベルではその場の情報レベルが高すぎて理解できないからだ。情報は飛び交っている、だが高度過ぎて分からない。つまらない。

 

知りたいことがある。でも自分のレベルがそれ以上の時。その説明会に出ても、知りたい事はその場所からは得られない。自分のレベルはその情報のほとんどはもう知っていて、そこで得られる情報レベルが低すぎるからだ。つまらない。

 

知りたいことはない。興味もない。でも学校で/会社から、行けと言われた。そんな場所では当然ながら、そこで語られる情報に興味はない。知りたくも無い。無駄な時間だ。つまらない。

 

…ということは、知りたいこと、それに興味があって、その提供される情報レベルにフィットした時と言ったいくつかの条件が重なった時だけが、唯一の満足感が得られる時。もちろんそこには多少のブレがあって、若干難しすぎるぐらいで想像と既存知識で補完しながら学ぶことで、メキメキ成長する感覚すら味わえる。

なかなか受講する側では調整が難しい。だから「良い先生」や「良い講師」は、その受講する相手に合わせて情報をかみ砕き、場合によってはちょっとレベルの高い情報を提供してくれる。相手を見て若干アウトプットを調整できる。これこそが師範の師範たる手腕。…のはずが、教師は教えるべき情報を教えればいい…などと横暴に考えている者もいる。こういう人が勉強嫌いの生徒を生み、悪の現況となりうる。

もちろん、教える側の完全な一方的な責務というつもりはない。教わる側も、自分に適した情報提供をしてもらえるところを探していく必要がある。双方が双方ともに努力した結果として、良い人に出会えるという事。

 

これ、結局人生と同じで、双方が同じように探さなければ、理想の人は現れない。ごくごくたまに、偶然が出会いを生むこともないわけではないけれど、それは万に一つ以下の偶然だと思ったほうがいい。

 

出会いを求めて、良い師範を求めて。