正解以外を知る意味

ものごとの性質上やはり学生さんが多いのだが、「正解」を知りたがる人は多い。小学校、中学校、まぁ高校でも多くの教育対象の内容では、正解が用意されている。だから「それ」を覚えればよいと考えがちの教育が施されている影響だと思う。

 

だけれど、これも以前ここで書いたと思うけれど、唯一絶対の、一つだけの正解があって、そのほかはすべて間違い…なんて事象のほうが、世の中では少ない。さらに言えば、社会人になって以降の問題においては、「誰かに関しての正解」は、「別の誰かにおける不正解」である場合も少なくない。…となれば、自分では正解だと思っていたそれを撤回し、何か別の解を探す必要がある。

そう、「一つではない別の解」が必要になるのだ。この時点で、「いやいや、それ以外、解はないから」と言ってしまえば、対立はもう全く解消されない。だから「そこから」、別の解を模索しなければならないわけだ。

 

これは別のシチュエーションでもあり得る。どこかの山へ登るでもいい。この登山ルート(今回の解)で行こうという事で準備し、出かけていく。とはいえ対象が自然であれば、当日現場に行って初めて、「昨夜の豪雨で崖が崩れて通れなくなっている」という場合だってある。そこでもちろん諦めるのもありだ、もう行けない。これも選択の一つだ。ではあるけれど、「でも今日のチャンスを逃すと、二度とそこには行けない!だから今、行きたい!」という場合、なんとか別ルートを考えたり、そこを通り抜けるやり方を考えたりしないだろうか?それは事実上の「別の解」ではないのか?

 

こうした課題やリスクへの対応は、そうなったときに出会ったらもう駄目…では成り立たない。だから「その時に対処できる、別の解を考えられる」ようになっている必要性があるわけだし、さらに言えば、万が一そんなことになった時にはどうするかの準備ができるように「考えておける」人になる必要がある。今必要とされているのは考える力ではないのか。

だから、正解だけ知っていればいいのではなく、正解以外の解をどのように考えるのか、正解以外のものは何が都合が悪いのか、効率が悪いのかを理解できる力こそが実力なのではないだろうか?

なぜそれが正解なのかのみならず、どうしてそのほかはダメなのか、いや、駄目じゃなくて他のものでもいいものがあったりしないかを探すこと、それが価値だったりするはず。

 

世の中、サプライズがあるのが人生。それに対応できるために、正解以外を考えませんか?そしてその、考える力を磨きませんか?