道具に求めるもの

ITなどの就職面接などで、こんなことできますか?こんなツール、使ったことありますか?なんて質問が出ることが。

言葉上だけなら、「はい使えます」なのか「いいえ使えません」と非常にデジタルに白黒分かれるはずだけれど、ここには非常に『使えないに近い「使えます」』というアピールもあれば、『使えますが…と謙遜にそまった「まだまだ使えていません」』もあり。

 

これ、お国柄とか民族的背景もあるようで、日本人は謙遜系「使えない」より過少アピールし、欧米の国々のいくつかは「使えます!」と過大アピールをする場合がある気がしている。この二人が一緒になったりして、「使えない」と言っていた日本人の方が、「使える」と言っていた欧米人よりもよく使えていたり(笑)。

 

とは言え、本当に知りたいのは、その道具を使おうが使うまいが、「やり遂げるべきことをやり遂げられるか」。だから「道具の使い方等々」を求めているというよりも、それを使って、どういうことができるか?「できることは何?」「やれる?」を問いたいはずなのだ。

けれど、「できること」では範囲が広すぎる。だから、仕事でよく使いそうな道具のことを聞くのがどうしても入り口になりがち。

 

特に、そうした作業をする際には「その道具を使わざるを得ない」場合には、それが使いこなせるのかを聞きたい。が、それも使えるレベルには無限段階のグレードが。
特に昨今は、PCが仕事の道具として当たり前に広がっている。昔のように「キーボード打てません」は通用しなくなりつつある…。が、意に反して、スマホしか使ったことがない人などは、キーボードが使えなかったり。

 

道具をどのくらい使えるのか、それを使ってどんな成果が生み出せるのか?

それ、「道具に求めるもの」ではなく、「道具を使って生み出せるものは何か」を求めているという事で。

「やり切れる」「成し遂げる」、そのための道具の使い方。